第88回 川崎国際生田緑地ゴルフ場

 川崎国際生田緑地ゴルフ場
    昔は名門“川崎国際CC”
 
 新宿発小田急の急行電車がまだ成城学園駅に停車しない時代の話である。新宿から20分、最初の停車駅向ヶ丘遊園駅から車で5分。多摩丘陵の東端に、ちょっとしたゴルファーなら知らぬ筈のない名門コース「登戸」があった。正式には川崎国際カントリー倶楽部である。新宿から僅か20分、東京GC、霞ヶ関CCよりも遥かに近いので、名門ゴルファーの入会も多く、彼らは短く愛称で「ノボリト」と呼び慣らわしていた。あるいは、短いが異例の難しさだったので、その愛称が出たのだろうか、いずれにしてもぴったりの呼び方だった。それが、現在の川崎国際生田緑地ゴルフ場である。

 川崎国際カントリー倶楽部、昭和27年5月18日9ホール仮開場、昭和29年11月3日18ホール本開場。戦後新設されたコースのトップグループの名門、会員制ゴルフ倶楽部のコースとして誕生している。
 コースは、多摩丘陵の東端、足下近く多摩川を望む枡形山地の66万平方メートルの川崎市公有地を、川崎林園が借地して造成した18ホール、6490ヤード、パー72。設計は当時併行して大洗GCを設計していた井上誠一。その下で現場統率者として富沢誠造が働き、富沢の長男広親そして竹村秀夫らが働き、設計者としてのキャリアを積んでいった。川崎国際CCの理事長は平山孝(前運輸次官)で平山は戦前の名門、千葉県所在の武蔵野ゴルフ倶楽部理事長で、富沢誠造は、その下でコース管理責任者を勤めていた。その関連で、登戸に後のゴルフ界を担う人材が集まったのであろうか。
 昭和20年代末期といえば、まだ土木重機もなく、ゴルフ場造成は殆んど人手でつくられていた時代だ。しかも用地は丘というより山地である。出来上がったコースは原自然を色濃く残した設計だった。当時の取材で筆者は「右も左もOB、グリーンオーバーもOBというホールもあった」と書いている。自然の小さな丘の上に小さなグリーンを置き、丘と丘の間のうねり、褶曲をフェアウェイとして生かすという方法で、自然を大いに働かせたコースだった。
 それが逆に東京GCや霞ヶ関CCの平坦さに馴れ過ぎた上流族ゴルファーを喜ばせたのだろうか。或いは井上設計の那須GCを連想させる雰囲気もあって、“登戸”は、上級ゴルファーを大いに楽しませたもののようだ。その中から4ホールを紹介してみる。
 
 昔懐かしい難ホールは今・・・

 筆者が一番印象に残っているのは9番(240=175ヤード、パー3)である。舟底のように狭いフェアウェイを200ヤード飛ばし、猫の額のようなグリーンに40ヤードの斜面を打ち上げる。当時のクラブ、ボールではプロでも1オンは難しいパー3だった。「プロでもボギー狙いだ」と筆者は書いている。2オン狙いでも、僅かに ショートすれば、斜面になった花道を30~40ヤードは戻ってしまうから、ボギーがやっとの曲者ホールだった。筆者が一番手古摺ったのは、4番(445=360ヤード)ホールだった。このホールのフェアウェイはS字型。Sの字の上下、左右にメンタルハザードとOBが待ち構えていた。グリーン右手前の谷底はOB、フェアウェイは中央部から右へ流れているから、見た目に惑わされず、方向と距離を慎重に計算しよう。
 10番(490=475ヤード、パー5)第1打は右の谷を避けて左目へ第2打も左へ。
 全体としてグリーンは小さく、グリーンバンカーは深い。オングリーンが難しいホールが続くから、ショートゲームのプランニング精度がモノをいうコースだった。慎重に地形を読み切ったプレーが求められていた。
 (※各ホールのヤーテージは、上が会員制の時の数字、下が現在のパブリック制コースのものです。)
 
 会員制時代の旧コースは上級者に人気があっただけではなく、プロ・ゴルファーにも馴染深いステージだった。プロ競技が数少ない頃から、このコースで行われたロレックストーナメントは、(1968年~1973年)の5年間連続、多くのギャラリーを集めた。成績は次の通り。
 1968年 村上 隆 67 70 137
 1969年 杉本英世 70 70 140
 1970年 河野高明 69 69 138
 1971年 橘田 規 70 72 142
 1972年 森 憲二 67 72 139
 1973年 日吉定雄 70 68 138
 
 1978年には男女プロ国別対抗のロレックスワールドミックスが行われ、L・アコスタ、N・ロペス組のメキシコが274で優勝している。
 その他1957年関東プロ選手権が行われ、小針春芳が1アップで石井朝夫を降して優勝、1980年には横浜オープンで矢部昭68 67 135で優勝の記録が残されている。
 
 時代は進む、都市化も進む
 
 新宿から電車で20分の「登戸コース」は年ごとに名門としての評価を上げていた。
 同時に、“新宿から20分”の魅力で、都市化の波も押し寄せるに急だった。住宅地の開発、向ヶ丘遊園などアミューズメントエリア、明大、専大など文教地区の進出など、都市化は急、同時に「市有地をゴルフ場が占有していていいものか」との地域の声も高まった。
 昭和59年、裁判所の職権調停でゴルフ場返還が決定。会員制から市民ゴルフ場へ、それは週2日の市民の日を設けることから始って、平成4年1月11日、完全移行が終った。
  現在の経営主体は、財団法人川崎市公園緑地協会。コースは6490ヤードから6225ヤードに短くなった。平成3年取材したときは「短く、やさしくしたわけではない。長さを測定し直した結果だ」という説明だったが、問題の難ホール9番が、240ヤードから175ヤードへ超短縮されたのは残念である。協会側の当時の説明では、小さいグリーンに深いバンカーという設計の井上誠一らしさは、なるべく残した、一部をグラスバンカーにしただけという説明だったが当時の来場者はどう思っていただろうか。
 市営となった当初、来場者が殺到したため、川崎市在住、在勤者を優先という措置がとられたが、現在は誰でもプレー出来る全国民のゴルフ場である。

コース所在地   神奈川県川崎市多摩区枡形7-1-10
コース規模     18H・6225Y・P72
            コーライとベントの2グリーン
            コースレート 未査定
設計者       井上誠一
開場年月日    平成4年1月11日(生田緑地区域内には、隣接して岡本太郎記念美術館がある)