第7回 日高カントリークラブ
狭山・入間台地には名門コースが多い
埼玉県央の狭山・入間団地には、東京GC、霞ヶ関CC以下武蔵CC、日高CC,飯能CC、狭山GCなど名門コースが肩を並べている。今は姿を消しているが戦前に生まれたコースを含めると、日本ゴルフ史上最高の名コースといわれた東京GC朝霞コースを含め、新霞ヶ関CC、秩父CCなどがある。
なぜ、この地域に多くの名コースが蜎集して生まれたか。地形が平坦だったからか。そんな単純な理由ではない。平坦な原野なら、関東平野にいくらでも、どこにもある。
霞ヶ関CC西コースのインコースの一部に松並木をならべた旧道が残っている。旧鎌倉街道の跡である。戦前も昭和期の早い頃この街道を中心に、かなり広い範囲にわたって、一帯には、松の平地林が拡がっていた。大きな松の立ち木もあったがそれは少ない。多くは小さい松を中心に雑木が入り混じった平地林だ。松は、大きくなると風姿はいいが、杉のように建材にもならないし、楓のように家具にも使えない。使い道がない。伐根も大変だから耕作もできない。要するに松の平地林は、厄介な土地だった。
ところが昭和4年地元の大地主で教育家の発智庄平翁が、土地提供して霞ヶ関CCが誕生、怱ち評判を呼んで、地主たちの間に、ゴルフ場誘致競争が起きる。そうして生まれたのが新霞ヶ関CC、秩父CC(後の東京GC) である。つまりゴルフ場は、松の平地林の救世主だった。
日高CCは、狭山台地の松の平地林に最後に駆けつけた企画だった。
創業者・高橋修一のこと
創業者の高橋修一は、日高CCが初めてのゴルフ場開発ではない。
高橋修一は、日高CCを始める時『金融界社』を経営していたが、戦前からの出版人である。昭和6年日本評論社に入社、昭和23年日本評論の後身、経済往来社の復活で、会長となる。昭和30年金融界社を設立している。経済のなかでも金融界では知名度が高く、金融界の法王といわれた一万田尚登(元日銀総裁)の信用が大きく、後に日高CCの理事長に推戴している。
高橋修一が初めてゴルフ場に関係するのは、昭和28年箱根CCである。母体会社の奥箱根興業(株)社長となり、土地確保に動く。父に従って箱根へ出かけた当時大学生だった子息正孝(現日高CC理事長・社長)も、まだ沼沢状態だった仙石原、早川など、箱根カルデラ(火口原)のことを、筆者に語ってくれたことがある。しかし箱根CCには小田急資本が参入したため、高橋は退任する。
今の武蔵CC豊岡コースの前身である武蔵町大字小谷田の大木建設の企画にも、共同経営で参画していた。ここは大木建設が買収済の二つの松の平地林の一つ、(もう一つは笹井)、またもや大木貞助社長と意見対立して退陣する。
箱根CCも、武蔵CC豊岡コースも、名コースとして知られている。つまりともに袂裂したものの、いち早く両コースに着眼した高橋の優れた感覚は評価されてよかろう。
松の独立樹の美しいコース
松の平地林の中には、亭々として高い松の独立樹もいくつかある。それをどうコースの美観、戦略性として活かし切るか、それが松の林間コースの評価を左右する。東京GCも霞ヶ関CCも見事である。しかし最も見事に松の独立樹の威容を活かし切っているのは、日高CC設計の相馬正胤である。
その代表例は、西5番(415ヤード・パー4)ホールである。フェアウェイ中央に、3本の松の独立樹が、80メートル間隔で一直線に残されていて、そこに醸し出される雰囲気のアンサンブルは、他コースの追随を許さない美しさだ。
なぜ相馬正胤は、日高CCを美しくもプレイアブルにまとめ上げることができたか。恐らく彼が、職業コース設計家ではなく植物学者だったからだ。正胤は、相馬馬追い唄で知られる旧相馬中村藩主の末裔。駒沢コースで日本初のベント芝を開発した孟胤は、兄である。正胤は、12年間の英国留学中に、ゴルフコースの知識を得たといわれる。
植物学者相馬正胤と出版人高橋修一が、ある日東京・銀座交詢社の集まりでめぐり逢い、ゴルフコース設計と自然観で意気投合する。修一は、正胤の英国流ゴルフ教養に任せてみようと思った。
昭和36年1月、日高CCがオープンしたとき、背の高い大きな松がフェアウェイに多く残されていた。攻めあぐねたメンバーたちが、
「景色としては美しいが、木が多くて攻めにくい。木が多ければ名コースなのか」と抗議した。その時正胤は騒がず、
「長い間には自然災害もあり、松喰い虫もいる。あんたたちもバンバンとボールをぶつけるだろう。20~30年も経てば程よい数になるよ」と大らかだったという。そして今、日高CCは恐らく、名コースの多い周辺でも、松の景勝美では1・2を争う筈である。
印象的なホールは
東2番(173ヤード・パー3)は、池越えのパー3だが、池はティ側に引き寄せられているので、僅かな距離不足で池ポチャということはない。背後に大ぶりの松の樹々を並べて美しい。
東3番(430ヤード・パー4)パー5かと、錯覚させられるホールだ。第1打は右に張り出した林立を警戒する。第2打付近は、深いハローになっていてグリーンは打ち上げになる。パー5と思って、第2打は正確に花道へ運びたい。
このホールもそうだが、東1番(364ヤード・パー4)の左グリーンのように、グリーン前に、谷ほど深くは無いが、ゆるやかな窪みをもったハローを置いたホールがいくつかある。ランニングではオン・グリーンをさせない、ショートしたらスロープを逆戻りしてグリーンからさらに遠ざかるというこころ憎い構図である。
東9番(328ヤード・パー4)は、第1打の落下点をどこに想定するか、作戦力が試される。右流れの馬の背フェアウェイとそこに置かれたフェアウェイバンカーをどう越えるか、どう避けるか。飛距離は要らない、頭脳だ。
西コースでは、8番、9番の急変化がポイント。全体が平坦な松の林間コースになっているこのコースで、唯一地表が大きく波打っている箇所だ。
西8番(544ヤード・パー5)第2打点の先がグリーンまで深い谷間のフェアウェイになっている。左のグリーンは高く、右のグリーンは5メートル低い。グリーンまわりの地形の変化を慎重に読むこと。27ホールのうち随一のドラスティックな興奮を誘われるホールだ。楽しみたい。
西9番(371ヤード・パー4)、距離はないが、右は林、フェアウェイは左傾斜。
グリーンは横になった馬の背で奥行きが浅い。しかもグリーン前には、人の背丈の2倍はある深いハローが身構えている。第2打は高いボールでグリーンに落とせるかどうかだ。
南コースは面積がやや狭く、総ヤーデージ3288ヤード・パー36と短い。
おもしろいのは・・・
南6番(295ヤード・パー4)パー3と見紛う長さだが、ティからグリーンまで左側に池の水面がひろがる。慎重に慎重に。
日高CCは、正会員は株主会員制である。この制度は、全正会員が平等に1株を持つ組織でクラブ民主主義の手本のようなシステムだが、半面では、経営責任の主体がはっきりしない、派閥が生まれやすいといった欠点もある。
そこで日高CCは、数社(名)を指定して、経営株を発行した。経営株主にはプレー権ナシ・譲渡不可である。そうすることで、経営の主体をはっきりさせている。
日高カントリー倶楽部
埼玉県日高市高萩1203(042(989)1311
圏央道狭山日高IC、鶴ヶ島IC。
開場 昭和36年1月23日。
東コース9ホール・3475ヤード、パー36
西コース9ホール・3502ヤード・パー36
南コース9ホール・3288ヤード・パー36.
コースレート(東・西) 72・8
プロのコースレコード 青木功69。
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