第47回 小樽カントリー倶楽部

 

 

ニッポンのリンクス・銭凾コース誕生

小樽カントリー倶楽部 クラブハウス

小樽カントリー倶楽部 クラブハウス

 小樽か凾館か、北海道のゴルフ場第1号はどちらが先だったか。北海道ゴルフ界では、今にも続く論争テーマである。
 ゴルフ場ガイドなどでは、
 凾館ゴルフ倶楽部、昭和2年11月13日
 小樽カントリー倶楽部、昭和3年4月5日。
 と公表され、公式データとして通用しているようだ。
 凾館GCの場合は、創立の中心人物君島一郎(日銀凾館支店長)が、凾館競馬場の柵内に、会員15名・6ホール・1860ヤード・パー24の凾館Gのコースを開場したのが始まり。
 一方の小樽CCの場合は、小樽に赴任した三菱鉱業小樽支店長佐藤棟造が、三菱ビル3階のインドア練習場と銭凾海岸にティとグリーンだけの3ホールを造り、小樽GCとしたのが、昭和3年4月5日である。
 これでみると明白に凾館が先、しかし小樽側は素直には肯かない。つぎの根拠を主張した。
 「4月29日天長節/色内8時37分発銭凾9時5分着/銭凾海岸の芝地にてゴルフをなす(中略)/ウッドンクラブにてフルに打つ快さ」
 これは北海道で最初にゴルフをしたという伝説の人 佐藤棟造の昭和2年4月29日の日記である。これを小樽ゴルフの濫觴、即小樽GCの始りとしたのである。これなら凾館に先んずること7ヶ月である。
 銭凾コースは、1ヶ月後6ホール、6月には9ホールと拡大する。そこは海岸沿いの牧場で放牧された牛の姿が牧歌的、そして石狩湾から吹く風と向うにはポプラの自然林の連なり、まるでスコットランドのリンクスである。
 時が経つほどに、“小樽のリンクスコース”名は東京にも届いた。早くも昭和4年には、日本ゴルフ界の先覚者、東京ゴルフ倶楽部、名古屋GC(和合)設計の大谷光明(西本願寺門主)が訪れ、9ホールを4回廻って、「日本のセントアンドリュースになるよう努力しなさい」と励ましたという。折柄銭凾はニシン漁の最盛期で海岸にはニシン網が一面に干されている。それを避けながらプレー、芝地を流れる小川を「これはまるでスウィルカンバーンですね」と語ったという逸話も残る。セントアンドリュース・オールドコースの1番、18番を横断して流れる小川スウィルカンバーンは、女房たちが岸辺に干した洗濯物にボールが飛び込んで、泥に汚され、大もめ。そこから障害物のドロップルールが生れたのは、有名な話だ。
 この間、昭和3年9月、小樽GCの名称を銭凾ゴルフ倶楽部に変更する。銭凾村は、鉄道で小樽と札幌の中間、海水浴場として両市の市民に親しまれていた。その関係で札幌からの入会、来場が増え始めたのである。
 しかし戦雲が迫る。昭和18年コースは閉鎖され競馬場となった。

戦後の復活、銭凾から別れて18ホールズ

小樽カントリー倶楽部 旧コース(銭凾コース)

小樽カントリー倶楽部 旧コース(銭凾コース)

 小樽CC(銭凾GC)の戦後復活は、後れた。昭和28年5月、旧コースの跡につくられた銭凾競馬場の場所に、9ホール、会員数80人の小樽CCとして、再スタートした。クラブハウスも昭和7年に建てたものをそっくり使用、コースも自然の形に手を加えず、戦前の設計をそのまま踏襲した(設計久野岩治)
 昭和30年代に入ると、昭和33年開場の井上誠一設計の札幌GC輪厚コースを先頭に、第1期ゴルフブームが到来、本格的な18ホールが次々に出現、小樽CCも9ホールでは、存在感を問われることになった。
 小樽CCでも、18ホールへの模索は、戦前からあった。昭和11年には塩谷駅附近17万坪に計画が動いたが、土地価格の高騰で挫折。戦後も久野岩治(戦後副理事長、小樽ゴルフ場社長、戦前6ホールの設計者)が、既設9ホールの隣接国有地に9ホール増設で動くが成功しないで終わる。昭和43年~47年にかけても、隣接国有地への試みはまたも失敗。旧9ホールとの間に星置川大運河工事が出現して、隣接地への9ホール増設工事はまたもや失敗する。
星置川を隔てた現在地に新コース18ホール・7200ヤード・パー72が本開場したのは、昭和49年6月15日、設計は日本プロゴルフ協会会長安田幸吉 細部設計川村四郎。「皆んなで遊べるものでなければダメ、それでいて大試合もできるものでないとダメ」が安田の主張だった。コース用地はポプラ並木があり、一面の西瓜畑だった。新コース建設委員長で、その後長い間理事長職にあった菅原春雄によると、フェアウェイ両側のポプラ並木が、日本オープンでプロを悩ませたとき、安田プロは、「ポプラ並木で壁を造ってはいけない。壁は逃げるしかない、やっぱり挑戦させなければいけない、壁はいかん、だから間引きしなさい」と指図したそうだ。その結果1本1本はよく育ち、プロたちは、ポプラの隙間から挑戦、ゲームがおもしろくなった、と秘話を語っている。
 小樽CCは、プロや上級者には長くて難しいコース、アベレージにはフラットで廻りやすいコースといわれた。安田幸吉の設計意図が成功したのだ。現在の大競技ではどうだったか。
 平成に入って、2回の日本オープンを経験している。
 平成2年、優勝中島常幸、7アンダー・281ストローク、
 平成11年、優勝尾崎直道、1オーバー・289ストローク。
 その差8ストローク。平坦で広く、やさしげに見えるが、石狩湾特有の風、雨が吹き降った日は、形相が一変するのだと判る。

米国人設計家による大改造後の表情

小樽カントリー倶楽部 1番ホール

小樽カントリー倶楽部 1番ホール

 平成11年の日本オープン終了後、小樽CCは、米国人設計家パスクォーツオ(全米設計家協会副会長)による大改造を行った。改造の趣旨は、安田幸吉設計理念を尊重する、フェアウェイ幅を平均30ヤード広くする、技術と同時に戦略も要求されるような、フェアなコースとするのが目的だった。改造当時は、最難ホールといわれる16番(504ヤード)、5番(486ヤード)、18番(462ヤード)、15番(462ヤード)などパー4ホールの距離の長さが目立った。小さなグリーンへ打つ230ヤードの17番パー3も評判となった。15番から18番までスーパー級の難易度を並べたのが、改造小樽の特徴だった。
 しかし実際のプロ競技ではどう展開したか。たとえばサンクロレラでは、16番ホールは504→486ヤード、最長のパー3、17番も230→190ヤードなど短縮したティマークで行われているようで、今年競技では、1ラウンド64が池田勇太とアマの松山英樹の2回、65は、平塚哲二、ドンファン、バーンズのそれぞれ1回、計5回ビッグスコアが出ている。プロの飛距離が大きく伸びたのか、あるいは小樽CCの本来の凄みが出ていないのか、どちらか。因みに、プロのコースレコードは、平成22年度サンクロレラで出した石川遼の「63」である。
 [追記] 旧コース9ホールは、星置川運河を距てて隣接する浜辺に、今も9ホール、3133ヤード・パー36で、本コースとは別個に、パブリックの練習コース、歴史的な魅力を持った観光コースとして人気がある。

所在地     北海道小樽市銭凾3-73
コース規模  (新)18ホール・7535ヤード・パー72
          (旧)9ホール・3133ヤード・パー36
開場日     昭和3年4月5日(旧コースによる)
設計者     (新)安田 幸吉
         (旧)久野 岩治