第11回 鳴尾ゴルフクラブ

日本で5番目の歴史

 30年前の話。当時米国ゴルフダイジェスト誌が発表していた「世界のゴルフコースベスト100ランキング」に、日本からは廣野GC、川奈ホテル・富士Cと並んで東京GC、鳴尾GCが選ばれるのが常識になっていた。
 いまそこに東京GCそして鳴尾GCの名前はない。世界のゴルフ常識が変わってしまったのだろうが、自然を疑わずに受入れ、それをすっぽり戦略性とし修景とした名コース鳴尾GCの価値は、今も少しも衰えてはいない。
 鳴尾ゴルフ倶楽部の誕生は、明治末期から大正初期に遡る。
 明治34年、神戸六甲山上にA・H・グルームによって造られた神戸ゴルフ倶楽部のコースは、冬になると積雪でプレーできなかった。そこでグルームの仲間の1人W・J・ロビンソンは、明治7年兵庫県武庫郡魚崎町に6ホールの横屋ゴルフアソシエーションを造った。
 その後日本では、明治39年、横浜に英人らによる根岸ゴルフ場、大正2年長崎県雲仙に、長崎県営パブリック雲仙ゴルフ場ができた。
 同じ大正2年、横屋コースを土地所有者に返還した後、ロビンソンは兵庫県武庫郡鳴尾村大字南北浜(現在の西宮市高須町1、2丁目)の、鳴尾競馬場駈歩コース跡を借りて、「鳴尾ゴルフアソシエーション」という6ホールの日本最初の海浜コースを造った。日本で5番目のコース、そして鳴尾ゴルフ倶楽部の発祥である。
 鳴尾アソシエーションは、その後3ホールに縮小、大正9年についに解散する。その後をそのまま使って、土地の持主鈴木商店の社員ら有志38人が、同社の英人A・E・クレーンらを中心に新しいクラブを結成した。その時から鳴尾ゴルフ倶楽部と、現在の名称となった。現存のメンバーシップコースとしては、神戸G、駒沢から出た東京GCにつぐ3番目の古豪名門である。
大正9年3ホール増設して6ホールへ。大正10年さらに3ホール増えて9ホール、グリーンも芝生グリーンとなった。横浜の根岸ゴルフ場と並んで、日本最初のグラスグリーンだった。
 待望の18ホールとなるのは、大正13年。キャプテン西村寛一、名誉書記J・E・クレーンを建設委員にして、新規9ホールのために、ドロンドロンの葭の原を拓いて、18ホール、5080ヤード・パー68のコースを造り上げた。設計はJ・E・クレーン(後に三好CCなど設計)となっているが、実質的には、西村との共作だった。9月14日は、土地の持主で倶楽部会長鈴木岩蔵が、初の第1打を放って開場している。しかしそれから間もなく、昭和2年世界恐慌が日本を襲い、鈴木商店は倒産する。
 鳴尾GCのコース用地も、鈴木商店から浪華倉庫に移り、鳴尾GCも、六ヶ月以内の明け渡しを求められた。
 昭和3年、全会員の総意で、クレーン3兄弟に、新しい18ホールの適地探しを委任した。北條、三木、三田など適地を求めて、辿りついたのが、猪名川渓谷沿いの川辺郡東谷村大字西畦野の現在地だった。阪急宝塚線能勢口から山下駅まで電車の便もよく、山下駅からコースまで徒歩15分、タクシー5分だった。
 昭和4年11月4日起工。設計は、キャプテンのH・C・クレーン。用地面積33万平方メートル。かなりの山襞(ひだ)地溝を抱えた丘陵地だったが、ブルドーザーもチェーンソーもない時代だ。工事はすべて人力1本で行われた。それが今の鳴尾に、自然のありのままに語らせた攻め、修景の見事さとして他に類のない特徴となっている。
 昭和5年10月12日開場。着工してから僅か11ヶ月だった。18ホールの“山のコース”と鳴尾に残された9ホールの“浜のコース”を両用できたこの頃が、鳴尾GCメンバーにとって至福の季節だったかもしれない。
 出来上がった鳴尾GCのコースに、さらなる改造を勧めたのが、昭和6年東京G朝霞コース、廣野GC、川奈・富士コースの設計、工事で滞日していたC・H・アリソンだった。

C・H・アリソンの改造勧告

No.2

やや打ち上げ、見事な美形の2番パー3

 アリソンは、18ホール殆んどについて勧告しているが、一番大きい改造は、1番、15番ホールである。
 1番(383ヤード・パー4)のフェアウエイは高いティから打つ第1打がストレートに伸びた後、2打、アプローチは右め狙いとなる。グリーンは右にふられている。原初のコースではストレートに伸びて、8番ティ手前まで延びていたらしい。そして2番ホールのティは現在の8番バックティだったという。

 それをアリソンは、現在の1,2番のルーティングのように改造勧告したようだ。
 見事な形と深さを持つ2つのバンカーを従えた2番(182ヤード・パー3)は、その改造の時にどの位置にあったか。アリソン勧告は2番には全く触れていない。美形のパー3だが、バンカーショット苦手は、手前に刻むのが安全か。
 15番(189ヤード・パー3)は、鳴尾を代表する名ホールの1つ。当初のティグラウンドは、14番左グリーンを終ってすぐ下に置かれていて、非常に窮屈な角度でグリーンを狙うつくりだった。それをアリソンは大改造。ティグラウンドを大きく右の小高い丘へ移動させ、グリーン正面に真向いさせた。しかもこの丘からのティショットは、約10メートル下にバスの通り街道を越えて打つ、というダイナミックな構造だ。日本を代表するパー3の1つである。
 4番(207ヤード・パー3)は、約200ヤードを、ティから6メートル近い上段に置かれたグリーンへ狙う構図だ。ティからグリーン面はみえない。見えるのはピンの上半分だけ。しかもグリーンは横長、背後は低木の林がすぐ傍と言うスリリングなつくりだ。直かに、正面から一発でオンを狙えるのは、かなりの上級者だけである。

8番ホールの“無作為の作為”

No.8

チャンピオンティから見た8番フェアウェイ

 5番(394ヤード・パー4)も、そのグリーン回り、グリーンを狙う深い谷底からの第2打地点からの展開は、他コースにはない景色である。ゴルフコースにおける谷隘いの生かし方とはこういうものか。
 14番(476ヤード・パー5)も、そこにあったゆるやかな山襞をそのまま、素直に生かして柔らかく、しかもダイナミックに、ワイドに使っている。
 深い地溝を越える3番(400ヤード・パー4)と10番(476ヤード・パー5)の、そこの越え方の対比もおもしろい。
しかし、それよりなにより「自然にまさる人工はない」(「リビエラ」のオーナーで設計者G・C・トーマス)の言葉を文字通り如実に実現して見せたような、8番(437ヤード・パー4)は忘れられない。

 山上の高いティグラウンドの左眼前には、服部山という小山がある。フェアウエイは、その山の裾をぐるりとめぐっただけ、山裾のどこにも削らず、どこにもトラップを窄たず、全く人工性がない。全くの在るがままである。1つのバンカーもない。筆者は、ここを初めてみたときの感動を、しばしば“不作為の作為”だと表現してきている。人工的に飾り立てるでも、トラップを置くでもない。しかしこの設計者は何もしなかったのではなく、何もしないという行為を選んだのである。それがここの自然に最もふさわしい対応だったことは、現在の8番ホールを見れば十分納得できる。
 因みに、服部山の由来は、猪名川コースの初めの頃、エチケットで一家言あった服部倫一氏からとったものである。
 鳴尾GCは、明・平成21年日本シニアオープンの開催コースとなる。昭和30年代、小さいグリーンに深いバンカーでプロたちをアイアンショットの地獄と泣かせたコースだ。日本では昭和前期生まれの古典的な名ステージを、中島常幸を筆頭とした戦後後半期のプロテクニックがどう読み切り、制覇できるかどうか、大きな関心である。

所在地  兵庫県川西市西畦野金ヶ谷
開場   大正9年10月
コース  18ホール、6554ヤード・パー70
設計   H・C・クレーン
コースレート  72.1
コースレコード (プロ)村木 章
(アマ)入江 勉