第71回 大相模カントリークラブ

 

 

もっと大きいランドスケープを…

大相模カントリークラブ クラブハウス

大相模カントリークラブ クラブハウス

 戦後のゴルフ場新設ブームが始まったのは、昭和30年代後半に入ってから。昭和34年に160コースだったゴルフ場の数は、昭和38年には326コースに倍増、以後387コース(昭和39年)→424コース(昭和40年)と増え続けて、昭和43年には584コースに達する。
 当時は、倶楽部名称は所在地名を冠称とするのが習いで、東京GCがあるから新東京GCが生れ、川崎国際CCがあるから新川崎が増えるといった習慣だった。
 だから戦前派の名門相模CCがあるから大相模CCが新しく生れても、少しも不自然ではなかったのである。
 大相模CCの「大」に深い意味があると気付かされたのは、平成20年発行の会報『大相模・開場40周年記念号』の高橋正孝理事長の文章を読んだ時である。
 相模CCは、昭和6年開場の名門倶楽部である。コースは、日本アマチュア界伝説の名手赤星六郎の設計。日本屈指の名コースとして知られていて、戦略的にも風致的にも第1級である。しかし、「名コースだが、庭園風である。もう少しランドスケープの大きいコースがあってもいい」と思うグループが、相模CCメンバーの中にもいた。
 後に大相模CCの創立発起人となる吉川金重、佐藤鷹岩、島崎千里、堀越善雄、三輪善雄、鈴木孝という人たちだ。
  「もっとランドスケープ(景観美)の大きいコースを」、そこから「大相模」の名が生れた。
 その雰囲気の中へ、すぐ近い神奈川県愛甲郡愛川町(井上博町長)が、過疎対策上、丹沢山系と相模川に囲まれた町所有の山地を売却したいと動いているというニュースが、吉川金重ら相模CCメンバーのグループに届いた。情報は、彼らと親密な高橋修一に伝わった。高橋は、昭和36年名門東京GC、霞ヶ関CCに近接して日高CCを開場、業界内の人気が高まっていた。
  因みに高橋は、日本評論、経済往来、金融界と続く戦前からの経済出版人である。ゴルフ場では、箱根CC創立で、母体会社奥箱根興業社長、武蔵CC豊岡の創業の中心にもいた。

41年間の改修年表が語るもの

大相模カントリークラブ 西5番ホール

大相模カントリークラブ 西5番ホール

 昭和40年3月(株)大相模カントリークラブを設立、社長高橋修一。12月用地42万坪を買収。初めから27ホール計画だった。コース設計は、起伏のきつい山コースをまとめて当時人気の発知朗。霞ヶ関CC功労者発知翁と同じ地元の出身。大谷光明が、後に東京GCと合併、戦争で姿を消する秩父CCを設計したときその下で設計を学んでいる。設計したコースは25。日高グループでは、本千葉CCにつぐ仕事である。なおコースの戦略性については、ヘッドプロ鈴木源次郎(日本プロ協会会長)が監修。
 「景観からいうと東コース4、5番ティから見た相模川、西コース5番ティからみたクラブハウスとその背景となる丹沢山系、中コース7番ティ横の茶店からみた相模原、橋本方面の眺望は得がたいものである」
 これは、高橋正孝現社長の言葉である。大相模は、確かにガーデンタイプの名コース相模CCのそれとは比較にならない大きいランドスケープの土地を得たようであった。しかし工事は難工事の果てしない連続だったようだ。
 昭和41年2月 本格的な工事開始。
 昭和43年11月23日 本開場式。
 昭和44年3月10日~7月21日 コース状態悪く、休業し再工事。
 「その頃のゴルフ場の景観と言いますと、船底へ打つみたいな感じでした」(中村国夫プロ)
 高低差の烈しい岩山の連続で、両サイドは岩盤だらけでOB杭を打つのもひと苦労、お蔭で腕っ節が強くなってボールが飛ぶようになったと、中村プロは、皮肉っぽく回顧している。しかし改修工事は、それで終ったわけではなかった。
 どこのゴルフクラブにも、年表はある。しかし「コース改修記録」年表のある例は珍しい。大相模CC会報『大相模』の「開場40周年記念号」には、クラブ40周年年表と同じ形式、扱いで「コース改修記録」年表が7ページにわたって掲載されている。稀有な例だろう。
 期間も長い。昭和43年から平成20年までの41年間に及ぶ改造、改修の全記録が、東・西・中コースに分類されて掲載されている。
 その結果、「コースレイアウトであるが、開場時の山岳コースから、その後の度重なる改修で丘陵コースに変ってきたことだろう」と、高橋正孝理事長は総括している。
 グリーンは、開場時の高麗芝とペンクロスの2面グリーンから、平成7年にペンクロス芝の2面グリーンに変った。高麗芝の使用可能期間が短い、という判断だった。他には中コースでは例外的に、グリーン及び周辺面積の狭いホールでは、1面ペンクロスにしたグリーンが3ヶ所ある。
 以上43年間に必要としたコース改修費は、「当初の造成費をはるかに上廻っているはずである」とは、高橋社長の言葉だ。但しそれは、コース改修の結果来場者が増加、ピーク時には10万人を越えたその増収分を充当、会員に負担をかけることはなかったという。

最難3ホールを攻める

大相模カントリークラブ 中9番ホール

大相模カントリークラブ 中9番ホール

 クラブ側で選んだキーホールは、つぎの通りである。
 東3番(446ヤード・パー4) タフなヤーデージのミドルだが、やや打ち下しの地形に助けられる。第1打は左ドッグレッグだが、フェアウェイセンターのやや右狙い。第2打は、クラブが大きくなるので右OBに注意したい。
 中コース3番(396ヤード・パー4) 左ドッグレッグで打ち上げホールでしかも1グリーンと、飛ばしてしかも正確さを求められる。ピン位置によっては3オン前提が賢いか。第1打はフェアウェイセンター狙い。ピン位置による…
 西コース8番(430ヤード・パー4) 打ち下しで右ドッグレッグの雄大なミドルホール。ホールの気宇の大きさに負けず、大きく飛ばしたい。そうでない人は実直に3オンで行きましょう。

これからの「ゴルフ場経営と環境文化」のファーストラン

大相模カントリークラブ 愛川アグリのコンポスト工場

大相模カントリークラブ 愛川アグリのコンポスト工場

 大相模CCが今、ゴルフ界で最も注目されているのは、その環境活動への積極さである。具体的な活動は、平成3年に愛川アグリ(株)を設立、植物系廃棄物のリサイクルシステムを確立したことに始まる。
 具体的な作業は、コース管理の中で集った刈芝草、樹木の葉、枯葉などを資料に、コンポスト工場で醗酵菌を混ぜて特殊肥料につくりかえ、コース専用砂と混ぜて、コース内に散布、還元するという仕事である。また竹など剪定枝や枯れ枝は、炭焼窯に入れ、本酬液、木炭、竹炭、粉炭、炭工芸品として製品化、エコリサイクル事業として貢献している。
 このように枯れ枝、刈芝草などを自家施設でエコリサイクルしているゴルフ場は、まだ極めて少ない。
 大相模はなぜ例外か。それは現社長高橋正孝のキャリアから生れたものであろうか。
 創業者高橋修一の三男。慶大出身。在学中はグリーンクラブ(ゴルフ部)、卒業後昭和電工デュポン社員として米国勤務。昭和49年大相模CC理事、昭和62年社長就任、平成18年理事長就任。
 環境エコシステムへの積極参加は、これからのゴルフ場経営の最大テーマの一つ。正孝社長に質問してみた。「きっかけは?」答えは「水俣病ですよ」だった。
平成20年から日本芝草機構理事長に就任。公益社団法人日本ゴルフ協会理事。ゴルフ場と環境文化をめぐる運動で、ファーストランを走る人である。

所在地      神奈川県愛甲郡愛川町三増64-4
コース規模  27ホール  東・9H・3507ヤード、パー36
                 中・9H・3317ヤード、パー36
                 西・9H・3343ヤード、パー36
設計者      発知 朗
開場年月日   昭和43年11月24日