第79回 よみうりゴルフ倶楽部

 

 

 発祥は川崎競馬場の移転予定地
 

よみうりゴルフ倶楽部 10番ホールからクラブハウス

よみうりゴルフ倶楽部 10番ホールからクラブハウス

 よみうりゴルフ倶楽部の発祥は、ゴルファーには意外にも、昭和25年川崎市の市街地に造られた川崎競馬場である。社名株式会社川崎競馬倶楽部。昭和25年5月関東競馬倶楽部に商号変更して、8月には船橋競馬も竣工。
 さらに同年10月、船橋競馬場内にオートレース場を造り、11月には社名を3たび関東レース倶楽部に変更している。このように競馬、オートレースなど大衆スポーツに向っていた読売グループの経営方針が昭和30年代に入って一変する。
 昭和30年鳩山内閣の原子力問題担当相を務めていた読売グループ総帥正力松太郎は、来日した米国原子力平和使節団長ジョン・ホプキンスと知り合う。ホプキンスは、“ゴルフのオリンピック”といわれたカナダカップ(現ワールドカップ)国際競技の創始者としても知られ、原子力平和利用が機縁で、正力は、第5回カナダ杯の日本開催を引き受けることになった。
 昭和32年10月、霞ヶ関カンツリー倶楽部36ホールを使っての第5回カナダ杯は、団体で、日本チーム、個人も日本の中村寅吉が優勝。毎日5千人以上のギャラリーが集り、日本テレビは、4日間フルに生中継(日本初)を伴うなど、歴史的成功を収め、日本におけるゴルフブームのきっかけとなった。
 (因みに当時の日本は、ゴルフ場数74、ゴルフ人口20万人程度。米国側の認識は、「日本にもゴルフ場があるのか」というレベルだったと記録にある)
 この大成功で、正力松太郎は、「この優勝を機にゴルフ場をつくろう。そしてゴルフの大衆化のために一大パブリックゴルフ場としよう」と考えたと、年史『よみうりランド』は記録している。
 しかも正力には、そのために転用できるある構想があった。

 ヒット曲「丘を越えて」のあの丘陵
 

よみうりゴルフ倶楽部 1番ホール グリーン

よみうりゴルフ倶楽部 1番ホール グリーン

 川崎競馬場も船橋競馬場とオートレースも、開催毎に大盛況をつづけていたが、総帥正力松太郎は、市街地にある川崎競馬場はいつか移転問題が生じると見て、移転先を構想していた。候補地は、川崎市菅地区と隣接する東京都南多摩郡稲城町(現・稲城市)を含む120万坪の多摩丘陵だ。多摩丘陵は、古くは万葉集の東歌に“多摩の横山”と詠まれ、鎌倉時代には小沢城を中心に屡々合戦の舞台として知られた土地である。昭和に入っては、藤山一郎のヒット曲『丘を越えて』(作詞島田芳文、作曲古賀政男)で有名なあの丘陵である。その120万坪のうち20万坪に遊園地、残り100万坪に2つのゴルフ場という構想だった。殆んど現在のよみうりランド全体像とピタリである。
 昭和34年8月1月は、初めのゴルフ場に着工。設計井上誠一、施工大成建設。昼は60台のブルドーザーを投入、夜はグリーン造成を続けた。
 そして、昭和36年6月1日、読売パブリックコースのイン9ホール仮開場。9月15日アウト9ホール仮開場、正式開場は、同年11月、18ホール・6997ヤード・パー72。開場式にはアーノルド・パーマー、ゲーリー・プレーヤーも参列している。
 読売パブリックでは、3回の国際競技が行われている、開場式典翌日から始った第10回読売プロでは、A・パーマー、Gプレーヤーが参加。プレーヤーが、18番の逆転イーグルで優勝。2回目は、昭和37年3月第11回読売国際オープンで、優勝は、豪州のピーター・トムソン、3回目は昭和38年3月、第2回読売国際オープンで、ダグ・サンダースが優勝。
 なお最初の読売パブリックの18ホールは、昭和39年3月遊園地読売ランドの開場に伴って、アウトコース9ホールを遊園地に譲り、インコースが現在のよみうりゴルフ倶楽部アウトコースとなり、新しいインコースは、浅見緑蔵設計で新しくつくられた9ホールである。また旧クラブハウスは、現在グリーンクラブとして利用されている。
 昭和39年4月会員制の東京よみうりカントリークラブがオープン。
 昭和39年5月本社を東京千代田区大手町から東京都南多摩郡稲城町(現・東京都稲城市)に移転。
 昭和43年1月、株式会社よみうりランドに商号変更。傘下事業所も揃って、「読売」から「よみうり」と変更された。

 パブリックから法人専用会員制へ
 

よみうりゴルフ倶楽部 8番ホール ティ

よみうりゴルフ倶楽部 8番ホール ティ

 昭和30年代半ばから始まった日本のゴルフブームは、経済の好景気もあって、益々盛んとなった。土曜、日曜のスタートをとるために、早朝午前零時いや前夜から順番取りの列ができるという現象まで現われた。
 弊害も現われた。特に困惑したのは会社、法人のゴルフ場利用だ。接待のため必ずメンバー1人に2~3名のビジター利用が必要になるが、それが益々困難となっていた。
 その状況を背景に、東京よみうりパブリックは、昭和53年10月、法人専用会員制の「よみうりゴルフ倶楽部」に転換、再発足した。倶楽部側は特徴を3つ挙げている。

① 法人会員(記名式)は700人限定する。
② 土、日、祝日でも会員1人につき3人までの同伴が可能である。
③ 平日は、会員の紹介でプレーできる。
 土、日、祝日に得意先の接待ゴルフに利用価値が大きい、ゴルフ界にユニークなシステムだった。
 倶楽部では、正式発足前の7月から、第1次募集を開始したが、11月初旬までに予想以上250口の法人専用会員が集ったと発表している。隣接のメンバー制東京よみうりカントリークラブが、土、日、祝日にきびしいビジター制限をしているので、その溢れたニーズを受けるという事情もあったようだが、都心に近いという立地の良さから、都心の法人に好評、平成2年前後の会員権ブーム最盛期には一時、相場値が2億円という声もあった。
 新しい発足に伴い、昭和55年10月5日クラブハウスが新築された。赤い洋瓦屋根、純白の壁面という南欧風の建物で、豪壮ではないがエックスクルーシブな佇いが、法人会員制らしい雰囲気を出している。

所在地     東京都稲城市矢野口3376ー1
コース規模   18ホール・6862ヤード・パー72
コースレート  ベントRT68.6 コーライRT67.3
設計者     井上誠一 浅見緑蔵
開場年月日  昭和36年11月1日
経営       (株)よみうりランド