第43回 下関ゴルフ倶楽部

 

 

天才児・中部銀次郎のホームコース

 昭和35年からの20年は、下関ゴルフ倶楽部の名が、日本ゴルフ競技史に、光彩を放ちつづけた時代だった。
 この間に、長兄中部一次郎が昭和34年に1回、末弟中部銀次郎は、昭和37年の初優勝に始って、39、41、42、49、53年の6回日本アマチュアゴルフ選手権に勝利、歴代最多勝利回数記録として今も残っている。次兄幸次郎もナショナル級の選手として大活躍、中部3兄弟の名は、日本アマチュア界に光彩を放っていた。その3兄弟のホームコースが下関GCだった。一次郎が所属を門司G、銀次郎も広野GC2回、霞ヶ関CC、東京GC各1回と変えているが、ホームコースは下関GCだった。平成14年12月25~30日 東京・日本橋高島屋で開かれた「没後1年中部銀次郎展」の際、銀次郎夫人啓子さんは、筆者の取材に、
 「下関GCは、父中部利三郎が、一次郎、幸次郎、銀次郎の3兄弟のために造ったのが始まりです」
 と語っている。
 下関GCができるまで、3兄弟は、下関海峡を渡って父のホームコース門司GCでプレーしていた。一次郎が、日本アマ初優勝を門司GC所属で戦ったのは、この事情による。
 さらに下関GCの名を上げたのが、昭和36年日本オープンにおける所属プロ細石憲二の優勝だった。4人によるプレーオフは日没後もなお決せず、クルマのヘッドライトの下で、細石優勝が決った。アマもプロも、下関GCは強かった。

1、2番ホールに元寇の遺跡

 現在では、下関GCに行くには、車なら中国自動車道下関ICで下りて22キロ、電車なら新幹線新下関駅からタクシーで30分、5000円ということになるが、歴史を辿るには、在来線の方が判りやすいし風情がある。
 下関から山陰本線急行で35分、川棚温泉駅に着く、下関GCの所在地、下関市豊浦町大字黒井は、ひと昔前は黒井村。各駅停車で行けば川棚温泉のひとつ手前に黒井村駅がある。
 鎌倉時代前期、この地の青山城に黒井氏が拠を構えたので、この地名が残っている。また14番ホール沿いにつづく巨松の並木は、青山城へ向う御成道の名残りといわれている。
 黒井村の日本海沿いの浜辺は、八ヶ浜といい、海風も通り難いほどの松の巨木が密生していた。別名“森の白浜”といい、地元民の特別な心情に護られていた。平安朝の昔は、“無呂の港”といわれて大陸との交通の拠点となり、遣唐使安部仲麻呂が、ここから出発したという記録も残る。
 クラブハウスにも、松原の歴史的な記憶が残る。下関GCのロッカールームに入ったゲストプレーヤーは入った途端、度肝を抜かれるだろう。太い松の幹立が2本、野生のままの荒々しさでどかーんと屋根をぶち抜いて立っているのだ。この演出は何を語っているかー。
 そして弘安4年、八ヶ浜は歴史的な修羅場となる。元寇の役の原因となる悲劇が起きる。
 建治元年、降伏を求めた元の国使一行45名が、近くの室津の浜に上陸。杜世忠ら5名が鎌倉に送られるが、龍ノ口で斬首となる。留め置かれていた40名も、八ヶ浜で処刑された。その遺跡は、1番、2番ホールの左側の松林の中に、「元使首掛松」「元使四十塚」として今も残る。
 事の次第に怒った元首忽比烈は、40万の兵、900艘の大軍で来寇、黒井氏は防塁を築いて防いだ。弘安の役である。防塁跡は、今も1番ホール左の松林の中に残っている。

上田治が発見した砂浜と巨松群

 下関周辺のゴルフ場第1号は、昭和27年12月、八ヶ浜に近い石堂山の麓に開場した川棚温泉ゴルフ倶楽部である。3ホールだった。18ホールへの増設計画を立て、設計家上田治に、現地視察を頼んだ。ところが上田は、既設の3ホールには目もくれず、足下に拡がる八ヶ浜の松原を指して、こちらが適地だと意外な反応だった。
 「そこは砂浜ですよ」「砂浜だからいいのだ」との応酬があったと、倶楽部史『下関の10年』は書き留めている。
 黒井村は、歴史ある土地柄である。西洋人が女連れで遊ぶゴルフは黒井村の歴史を汚すと、巨松を伐ることへの反対が強く、道路に杭を打って抵抗したという。18ホールでは松原がなくなるとの反対で、上田設計も、9ホールずつ、18ホールが揃うのに4年の間隔で工事を進めた。昭和29年6月9日着工、18ホール完成は、昭和35年10月30日と後れた。
 この間昭和29年8月、最初の9ホールの芝張りを終った段階で資金難に陥り、大洋漁業中部利三郎が経営に乗り出した。10月、名称から「温泉」を外して川棚ゴルフ倶楽部と改め、30年3月さらに下関ゴルフ倶楽部と改め、9月中部利三郎が理事長に就任、コースの全面改造を進め、翌31年7月、改造9ホールによる正式開場を行った。18ホールとなるのは、前記の通り4年後昭和35年10月10日まで待たねばならなかった。

「海風」という自然の戦略性

 18ホールズは、日本海沿いの深い松林に護られた丘の上に展開している。1番、10番ホールは、同じ地点から背中合せにスタートする。松林は幅が広く、背丈が高いからフェアウェイでは殆んど無風、シーサイドというより林間コースを歩いている感じだ。しかし
 「松の上を海風が通っているので、それを読み取らないとグリーンに乗せるどころか、フェアウェイにボールを落すこともできない」(JGA現常務理事川田太三氏)
 という天然の戦略性が隠されている。
 コースは、アウトコースは、ティからグリーンまで15メートルを打ち下してゆく6番ホール、10メートルを打ち上げる7番ホールなど起伏のある展開も。対してインコースはおおむね平坦だが、10、12、13、15、16、18番など、ドッグレッグホールが多く、攻め方が複雑である。中でも16番は、松林の角を殆んど直角に右へ曲るホールで、難ホールの代表例だ。第2打は海へ向って打ち、スリリングである。
 250平方メートルと極端に小さい13番のように、総じてグリーンが小さく、深いバンカーに守られた砲台型が多いことも、このコースを難コースにしている。
 しかし難コースたる理由の第一は、風であろう。高い松林の上を吹く海風である。平成3年の日本オープンでは、優勝した中島常幸のスコアは、2オーバーの290、平成14年の優勝スコアはデビッド・スメイルの9アンダー・271、この差は強風に惑わされた4日間と無風の日には8アンダー・62の快スコア(佐藤信人)も出た、幸運な無風の4日間の差である。
 とはいえ「松の上を海風の渡る日が、下関GCの真骨頂であろう」

所在地     山口県下関市豊浦町大字黒井850
コース規模  18ホール・6944ヤード・パー72
コースレート  72.9

設計者     上田 治
開場日  昭和31年7月22日
コースレコード  プロ 佐藤信人 62
           (但し日本オープンにおけるパー70設定)