第8回 大阪ゴルフクラブ

                                                                                                                                                                                                                                                               上上田治の会心作の一つ
3番ホール。ティからグリーンへ打ち下ろす

3番ホール。ティからグリーンへ打ち下ろす

 

 日本のゴルフコース設計者の双璧は、「東の井上誠一、西の上田治」だとは、いまや誰も疑わない。中でも関東地区では、井上誠一は殆んど神様のような存在で、毎年秋になると日本橋三越で回顧記念の写真展が開かれるほどだ。今年も生誕100年記念催しが、陸続している。
これを見て、8年前になるか、上田治設計の小野東洋GC(東洋企業)社長上田三郎氏から、「井上本に負けないような、上田治設計コースを網羅した写真集を出したい。」と、協力を求められたことがある。この計画は、上田社長の勇退で実現しなかった。
 しかし昨秋、上田治設計のコースを集めた「上田会」が発足した。取り敢えずは、古賀GC、門司GC、下関GC、小野GC、大阪Gの5コースで発足。さらに拡大する計画。
幹事は、大阪GCの松本幹宏支配人。上田治設計は全国で50コース余。名門コースが多く、
誰もがプレーOKとはいけないのがネック。そこで上田作品の魅力をより広く知って貰う
ための催しを展開しようというのが会の趣旨である。
 上田治。明治40年大阪府茨木の生まれ。旧制茨木中学松山高校、京都帝大農学部で造園学を学ぶ。在学中廣野GCの建設に従いアリソンと伊藤長蔵の下で働く。水泳でも有名、茨木中学では2回背泳の日本記録を出している。昭和11年のベルリン五輪では、水泳の審判員として参加、帰国の途中日本ゴルフ協会の委嘱で英国中心に各地のコース、特にグリーンを視察、研究する。初めての作品は、昭和9年門司GC、11年信太山ゴルフ場、12年大阪G淡輪コースと続く。昭和15年広野G支配人となるが、コースは戦争のため19年閉鎖。戦後は広野Gの再建が仕事となる。昭和4年当時アリソン、伊藤の下で広野Gの建設に携わったことが大いに役立ち、コースは昭和23年6月に再開。それから6年上田は、隆盛を取り戻した広野Gを見届けるかのように支配人を辞職、専業コース設計家として独立する。
 大阪Gのクラブハウスの2階ラウンジ入り口に、一つの胸像が、客達を迎える。創始者寺田甚吉、後に南海電鉄社主となり、関西ゴルフ史からその名を外せない人物だ。
 大阪Gは、寺田の私有地10万坪の寄附から始まる。さらに南海電鉄の社有地が加わって20万坪、当時の地番は、大阪府泉南郡淡輪村と深日村に跨る海際の丘陵地だった。
 計画の狙いは、「シーサイドコースは、東の熱海に川奈ホテルコース、西に淡輪あり」(「大阪G50年の歩み」より)と、川奈と丈比べできるゴルフ場をつくることだった。川奈・富士コースの設計は、C・H・アリソン、淡輪の設計は、“アリソンの子”上田治でなければならなかった。
 
初めは、昭和12年9ホールで始まる。設計は不詳(設立役員の清水太郎か松山瓊次郎か)翌13年18ホールへ拡張する際、英国から帰朝した上田治(広野GCグリーンキーパー)が全9ホール改造、9ホール新設の設計に当たる。18ホール、6700ヤード・パー72が開場するのは、昭和13年7月25日。大阪GC淡輪・深日コースと称したが、一般には“淡輪”で親しまれ、今でもそうだ。
 淡輪・深日コースのある地区は、当時由良要塞という軍事基地に含まれていた。開発に際して要塞司令部の許可証が残っている。戦時下では、航空燃料の隠匿場所に全施設を接収され、終戦後もコース用地が大阪府、農林省を転々、昭和27年淡輪、深日町両村議会が再建決議をして漸く清水太郎改造設計で6ホールが復活。28年18ホールに戻る。昭和31年1月みさき公園条例により3ホールを分譲、昭和31年8月現在の1、16、18番ホールを新設(松山桂司設計)、6435ヤード・パー72が揃った。

上田式ブラインドホールの面白さ
7番ホール。向こうのフェアウェイへ谷越えの第1打

7番ホール。向こうのフェアウェイへ谷越えの第1打

 

 現在のヤーデージは、6351ヤード・パー72。他コースのフロント、レディスティの長さだ。それでいて淡輪コースを回ると、“長いな”と思わせるのはなぜか。それは海に面した1、2、3、4、7、8、13、14番ホールなど高い断崖に広がる海際の自然のスケールの大きさ、ダイナミズムの効果だろう。
土質は岩盤のホールが多く、土工事の及ばない箇所をそのままレイアウト上の難度として取り込んでいるために、ヤーデージの短さを意識する遑がないのである。
 それと、上田治が、随所に第1打ブラインドホールを採用しているのも、このコースの攻め方を多彩且つ高度にしている。広野GC、川奈・富士にはブラインドホールはない。その
意味では、上田は“アリソンの鬼っ子”かも知れない。但し、淡輪のバンカーは、広野、川奈・富士をさらに進化させて深く険しい“アリソンバンカー”である。
 18ホール全部が印象に残るが、選べば、次のホールである。
 3番(466ヤード・パー4)ティから海際に近いグリーンまで、ストレートに約30メートルの高低差を一直線に打ち下ろしてゆくドラスティックな設計だ。気の弱い設計者なら目をつむって逃げる地形を、この美しくも豪快な景観に読み解いてみせた感性に驚く。
 12番(420ヤード・パー4)谷越えの第1打ブラインドである。しかしよく観察すれば向うのフェアウエイ台地から打つ第2打は右ドッグレッグと想像できる。上田治の精一杯の親切心だ。第2打からグリーンまでの展開が素晴らしい。
13番(373ヤード・パー4)第1打はブラインドと見ればそうともいえる程度。短い分曲り角の様子が窺い知りやすいので、難ホールではない。
 この2ホールとも、第2打から狙うグリーンへのデザインは素晴らしい。正確に攻めたい。
 
7番(396ヤード・パー4)第1打は完全ブラインド。谷越え向うの巨像の背中のようなフェアウエイ中央に落とす他に術はない?冒険したい飛ばし屋も、フェアウエイは背中の向うに真っ直ぐに延びていると想像して打つ他はあるまい。そのあとについては解説しない。設計者とプレーヤーの想像力の勝負だ。
14番(145ヤード・パー3)は、一般の人は淡輪の名物ホールという。右は海、大きな断崖上の岩盤に乗ったグリーンへ谷越え(下は海の入江)。風がある日は形相が変わる。願わくば背後の森がもっと低く、踈らになると恐怖感はさらに上がるか。

1番ホールはCTから第1打

13番ホール。第2打地点からグリーン

13番ホール。第2打地点からグリーン

 大阪Gは、数年来、川田太三氏によって改造改修中である。戦後いろいろな事情でホールやルーティイングの改変があったので「昔のコースが100%だったかどうか、昭和13年(上田設計)と現状との比較はいえない。しかし、その中のいくつかのいい部分を思い出せるように改造、改修できたらいい。残っている良さ、100点のうち40点、50点しか出せていないホールを、100点に近づけたいと思います。」(川田太三)
 と語っている。1番ホールは、パッティング練習グリーンの上を打ち抜くように、チャンピオンティを新設した。「危ないじゃないか」といわず、1番ホールだけはチャンピオンティから打ってみることをお薦めする。大阪ゴルフクラブが目指そうとするゴルフグレードの質がわかる筈だ。
 大阪ゴルフクラブは、たとえれば“小柄だが最強の剣豪”である。

所在地   大阪府泉南郡岬町深日31
開場日   昭和12年10月14日
コース   18ホール、6351ヤード・パー72
設 計   上田 治・松山桂司(瓊次郎)
コースレート 70.4