第27回 旧軽井沢ゴルフクラブ

旧軽井沢ゴルフクラブ

旧軽井沢ゴルフクラブ

 

 

 夏から秋へ、軽井沢のシーズンが始った。
 軽井沢には、<新軽>と<旧軽>二つの名門ゴルフクラブがある。ともに簡単にはビジターカードが手にはいらないベリー(正真正銘の)プライベートクラブである。またメンバーになろうとしても、容易には扉を明けてくれないエクスクルーシブ(閉鎖的)なクラブという点でも共通している。
 軽井沢ゴルフ倶楽部いわゆる<新軽>については、この名門めぐりシリーズ第5回で案内したので、今回は旧軽井沢ゴルフクラブ、<旧軽>を紹介する。
 突拍子に聞えるだろうが、軽井沢のゴルフ史を繙くと、<旧軽>を造ったのは<新軽>だと判る。ひと昔前のゴルファーなら普通に知っていたことだが、今は、80%の人が、「えッ?…」と首を傾けるだろう。だからそこから始める。

<新軽>と<旧軽>どっちが先?

 明治19年、英国人宣教師A・C・ショーが布教の道中軽井沢を通りかかり、「故郷スコットランドそっくり」と心奪われ、21年大塚山(旧軽井沢)に小屋を築いたのが別荘第1号。以後外国人の別荘がみるみる増加、明治26年横川~軽井沢間に鉄道碓井線が開通して以来、外国人プラス日本人政財界人向け別荘分譲が進出した。軽井沢文化の始りである。
 大正8年、徳川慶久、細川護貞ら貴族階級と田中実、川崎肇など東京GC駒沢コースのゴルフ先覚者グループの間で、「軽井沢にもゴルフ場を…」の声が起り、8月軽井沢ゴルフ倶楽部が結成された。後の<新軽>の誕生だ。
 コース用地も、別荘分譲会社野沢組所有地を中心に、離山御膳水の(現在地)7万坪を借地、9ホール建設が進められた。設計は、セント・アンドリュース生れで当時駒沢コースにコーチとして招請され滞在中だったトム・ニコル。大正9年10月23日、用地踏査を兼ねて「ここはグリーンと赤旗を立て、あそこはティと白旗を立てて」大体の設計としたと、発起人の田中実が書き残している。簡単なルーティングを決めただけの設計だったようだ。その日草木に破られてニコルの服がボロボロになったので、洋服代30円を払ったと書いているのがおもしろい。翌大正11年夏9ホール・3447ヤード・パー36を完成。フェアウェイは野生の野芝、グリーンは砂だったが、翌12年高麗芝に改造。名物は7番パー5の674ヤードで、東洋一の長いパー5だと騒がれた。
 昭和に入ってゴルフ人口が増大、18ホールへの願望が強くなり、「軽井沢ゴルフ倶楽部」は、同じ軽井沢だが成沢地区南ヶ丘に、18ホールを新設、メンバーを引き連れて移転してしまった。
 クラブハウス、コースなど施設一切を残しての移転、借地の解約だったので、それ以後、地主の野沢組他が、パプリックの旧軽井沢コースとして経営していた。太平洋戦争が始まるまでは順調だったが、昭和18年ついに閉鎖。

<新>が<旧>を産む。旧軽の誕生

旧軽井沢ゴルフクラブ

旧軽井沢ゴルフクラブ

 敗戦後は、米軍に接収され、乗馬訓練、飛行機の滑走訓練などに使われていた。戦後の混乱の中で別荘地が分割、四散する中、昭和27年「歴史あるゴルフ場を残せ」の運動が起こり、鹿島組の鹿島守之助が、私財を投じて全敷地を買収した。守之助の父岩蔵は、明治26年の碓井線建設に関って以後、西洋人向け別荘開発に進出していたのだ。その業績は今も“鹿島の森”として残っている。
 昭和23年米軍接収が終わる。守之助は、直ちにコース整備に着手、昭和24年6月20日、所在地名に因んで「旧軽井沢ゴルフ倶楽部」の名称で、新生ゴルフ場をスタートさせた。<旧軽>の誕生だ。
 ㈱旧軽井沢ゴルフ倶楽部は、出資者100人による資本金100万円の株式会社だったが、その後入会希望者がふえ、一般会員も受け入れている。発起人代表五島慶太、出資者の中には、細川護貞、鶴見祐輔、鹿島守之助、松井春生などの名前がある。
 以上の足跡を辿ったことで、<新軽>が旧軽のコースをつくり、戦後そのコースが<旧軽>として生れ変った事情が納得されたと思う。<新>が<旧>を生む。これも歴史の諧謔であろうか。
 昭和30年アウト、インそれぞれ6ホールの計12ホール・4090ヤード・パー49(現在は48)に改造。さらに昭和48年に、アウトコースを中心に、安田幸吉が改造をしている。安田は、駒沢コース時代トム・ニコルの教えを受けている。安田は、昭和52年、53年にも主としてグリーンとグリーンまわりバンカーを改造している。53年9月、関東ゴルフ連盟より、アウト・イン・アウト70.6、イン・アウト・イン71.5のコースレートを受けた。
 昭和33年、株式会社とは別に会員により運営される組織「旧軽井沢ゴルフクラブ」を設立する。初代理事長松井春生(元東京都長官)。

旧軽に行ったらスコアを忘れよう

 旧軽は、平成元年~7年にかけて米国人マイケル・ポーレットによる大改造を行った。グリーン、グリーンまわりのデザインを現代風に近づける狙いだったようだが、マイケル自身は、アウト1番に渚のバンカーを置くなどアメリカンスタイルを試みながらも、全体としては、「日本でも最も誉れ高いコースのひとつ」を念頭に、「雰囲気を全く変えてしまうことのないように注意した」と慎重だったようだ。改造は、12ホール・3986ヤード・パー48とやや短くなりながらも戦略性と水辺の修景美を加えて今も好評である。
 結論として筆者は、「旧軽に行ったらスコアは忘れよう」と薦めたい。そこには背景の山姿を屏風にして日本のゴルフ場の美の極致が展がっているからだ。旧軽は、もとを辿れば別荘地7万坪につくられたコースだ。狭い狭間をフェアウェイとしグリーンをやや高く掲げた姿が多いのは、北スコットランドのハイランドコースを思わせる。狭いけれど狭くるしくはないのは、景色が美しいからだ。
 ある年の10月下旬。全山紅葉の1番ティに立ったとき筆者は、そこに広がる圧倒的な彩色の広がりに圧倒されて「これはこれはとばかり旧軽井沢・・・!!」と驚嘆、暫くティアップを忘れた記憶がある。
 京都に行ったらまず清水寺に行くように、軽井沢に出かけたら必ず旧軽でプレーしたいものだ。スコアの問題ではない。日本的自然美を磨き抜いてゴルフコースにしてしまったような名作が、そこにあるからだ。

所在地 長野県北佐久郡軽井沢町字軽井沢1372-3
開場日 大正8年
コース 12ホール、3968ヤード、パー48
 (アウト6H、イン6H。アウト・イン・アウトで18ホールとする)
設計 J・マイケル・ポーレット
 原設計 トム・ニコル
コースレート 18Hで70.5