第3回 東京ゴルフ倶楽部

  <それはニューヨークから始まった>
クラブハウス

クラブハウス

一番最初にゴルフを始めた日本人は、誰だろうか。明治29年(1896年)当時、ロンドンのグリニッチ海軍大学に留学中の水谷淑彦(後に海軍機関中将)が、近くのブラックヒースでプレーしたのが、一番早いというのが定説だった。これに対して「いやもっと早い男がいる。日本の生糸貿易商のパイオニア新井領一郎だ」と異議を唱え始めたのが、他ならぬ東京ゴルフ倶楽部資料室である。
 新井領一郎は、明治9年(1876年)頃からニューヨーク在住、1898年頃にはゴルフを始め、1908年に日銀ニューヨーク代理店監査役として赴任した井上準之助に、ゴルフを教えている。
 新井の影響を受けた在米紳士達が、ニューヨークで、親睦団体「日本倶楽部」をつくりゴルフを楽しんだ。その中には、井上の他に森村市左衛門、樺山愛輔(実業家。白洲正子の父)生糸商荒川新十郎がいた。彼らは帰国後も、ニューヨークで楽しんだゴルフが忘れられず、「東京にもゴルフコースを造ろう」と動き、1913年、虎ノ門の社交団体「東京ゴルフ倶楽部」を中心に出資者30人、出資金1人千円の「東京ゴルフ会」を設立する。東京ゴルフ倶楽部の始まりである。
 中心は、後に日銀総裁、大蔵大臣となる井上準之助、当時は横浜正金銀行頭取だった。

<駒沢→朝霞→狭山へ三遷>
 初めてのコースが開場するのは、大正3年6月。6ホールで仮開場、すぐ2,300ヤードの9ホールが完成する。場所は東京府荏原郡駒沢村、現在の駒沢オリンピック記念公園だ。設計は、先に開場していた横浜根岸競馬場内の外人専用ニッポンレースクラブ・ゴルフイングアソシエーションのG・G・ブレディ、T・E・コルチェスターの2人。当時の駒沢は、明治天皇がうさぎ狩りをしたという原野だった。
 敷地は約3万5000坪、1ヶ月坪5厘の借地料で、日ならずして高い地代に泣かされことになる。
 すでに神戸・六甲、雲仙、横浜・根岸、鳴尾などのゴルフ場が先行していたが、「日本人のための、日本人によるゴルフ場」は、駒沢コースが第1号だ。
 18ホールになるのは大正15年。しかしその前から新コース移転で動き出す。大正11年には、9ホールでは不満な、浅野良三らのグループが程ヶ谷CCとして分離、独立する。あまり知られていないことだが、現在の相模CCの場所も、駒沢からの移転先候補地だった。結局「車で行くには不便」として外された。国道246号が開通する前の話だ。それでは勿体ないと伊藤文吉(伊藤博文の子)らが立ち上げたのが、現在の相模カンツリー倶楽部である。
 駒沢コースは、昭和3年18ホール・6,400ヤードの本格派に拡張されるが、地代高騰に追われて、昭和7年には、埼玉県膝折村(現朝霞市)に移転する。残されたコースは閉鎖、のち東横電鉄系のパブリックコースとなる。
 埼玉県膝折村に、東京ゴルフ倶楽部の新コース朝霞コースが開場するのは、昭和7年5月1日。C・Hアリソン設計の18ホール・6,700ヤード・パー69は、6万人の人夫、起伏を造るための1万立方坪の土量、ベント芝をグリーンからラフ、フェアウェイまで貼り詰めるための砂2,500立方坪を投入、平凡な土地を変化と景観に富む“芸術品”に仕上げたと、後に赤星四郎が称賛している。投じた費用30万円、普通のコース造成の3~4倍の大金だった。
 しかし日本初のモダンクラシック、朝霞コースの寿命は僅か8年で終る。昭和15年、陸軍より陸軍予科士官学校建設用地として譲渡申し入れがあり、9月6日170万円で本決まりとなる。「朝霞コースが残っていたら、日本のゴルフコース設計は現在とはもっと違っていたろう」と惜しむ言葉に送られて、昭和16年4月、9ホールで続いていた猶予期間も過ぎ、完全に姿を消した。(現在は、自衛隊朝霞駐屯地である)
 朝霞コースを失って、東京ゴルフ倶楽部は行き場所を失う。新コース用地を求めて川越の近く三芳村に適地を探し当てるが、農地法に妨げられて不調。遂に、名門東京ゴルフ倶楽部は存亡の危機に直面する。折から太平洋戦争に突入、世相はゴルフどころではなかった。
 危機を救ったのは、大谷光明だった。
 当時霞ヶ関カンツリー倶楽部の隣接地に秩父カントリー倶楽部が、既設の北コースの他に「隣の霞ヶ関CCは36ホールだ。18ホールでは見劣りする」と東京GCメンバーの大谷光明設計で南コースを造成中だった。秩父CCには、他にも東京GC会員の入会が多かった。それらの機縁で、昭和15年10月15日秩父CCとの間に合併契約が成立、合併後の倶楽部名称も、東京ゴルフ倶楽部とすることとなり、ようやく駒沢以来の名門の命脈が保たれたのである。
 現在の東京ゴルフ倶楽部のコースは、秩父CCの南コースである。北コースは、戦時中日本鋼管に売却され、今は団地などに姿を変えている。
<バンカーを攻める妙と景観>
15番ホール(P5)フェアウェイ左のバンカー
15番ホール(P5)フェアウェイ左のバンカー

東京GCの現在のコースは、昭和15年12月15日開場、18ホール・6,904ヤード・パー72.コースレート72.9。大谷光明設計は、川奈・大島・名古屋(和合)など名門が多いが、東京GCのコースは随一の会心作である。
 注意深く観察すると、18ホールの中で池は5番グリーン前の小さい水面だけ。これも後年の改造で造られたもので、大谷設計には池は全くない。大谷光明は、長い間英国に留学、その間にゴルフを知り、学んだ。英国のコースには殆んど池がない。ホーム・オブ・ゴルフのスコットランドのコースでは、シーサイドのコースはあっても、池はない。このコースを設計するときの大谷には、そういうスコティッシュ憧憬があったと思われる。
 現在の東京GCは、大きい松を中心とした立木に彩られた庭園風の景観だが、昭和28年頃までは、立木も小さく、さながらリンクスランド風だった、という会報の記述が残っている。代わりに大谷が提案したのは、砂の海・バンカーである。
 現在でも、13番、14番、15番には、他コースでは滅多にないように大きいバンカーがあるが、当初の設計では、もっと大きく広い、文字通りの砂の海バンカーだったようだ。
 たとえば、14番(351ヤード・パー4)は、グリーン前に3個の大きなバンカーが待構えているが、大谷設計では、バンカーの中に浮島を2つ浮かべていたようである。しかし、トラブルになりやすいので、数回の改造で、浮島とグリーンをつなぐ道がつけられるという形で、バンカーは分断されたようである。
 因みに、14番ホールのバンカーは、大谷が、京都のある名庭園にヒントを得て造ったといわれている。
 15番(502ヤード・パー5)はフェアウェイ左側に大きなバンカーを連ね、現在の攻め方は右のフェアウェイを辿るようになっている。しかし大谷設計では、巨大バンカーがフェアウェイ中央に置かれていて、飛ばし屋は、バンカーの左(現在はラフ)を飛ばして2オンを狙ったそうだ。このバンカーも大きすぎたため、フェアウェイに上がる道を造った。そのため、2個のバンカーに分割されたようだ。
 印象的なクロスバンカーも、2個所ある。
 13番(570ヤード・パー5)はティから280ヤード付近、フェアウェイを横断するように横長の、さながら戦場の塹壕を思わせるバンカーが横たわっている。深さは、兵士が砂の壁沿いに腹這いに立って射撃するほどの深さだ。一般アマには第1打で越えるのは無理だから、前に止めるか、左のラフへ逃げるか、方向と距離の選択が問題になる。
 2番(388ヤード・パー4)は、戦国期の館跡という高いティから打ち下ろす第1打だが、10メートル打ち下ろし、200メートル先のフェアウェイには、左右に巧妙に置かれた3個のバンカーがある。これを大きく越えれば2オンもOK、手前フェアウェイに安全策をとれば、3オン覚悟ということになる。
 プレーとしてのバンカーは、失敗すると痛い。しかし景色としてみると、見事に整えられた枯山水の庭園芸術にも見える。東京ゴルフ倶楽部のコースは、そんな名庭園でもある。