第16回 相模カンツリー倶楽部
初めはサラリーマンのゴルフクラブ
相模カンツリー倶楽部は、関東地区でも10指に入る名門ゴルフ倶楽部である。社団法人組織で、会員権は市場で流通していない。誰もが自由に入会できるクラブではない。つまり東京ゴルフ倶楽部、軽井沢ゴルフ倶楽部と同じプライベートクラブである。
しかもアクセスがズバ抜けていい。東名高速道町田・横浜インターから5キロ、渋谷からでも40分である。名門級では、小金井とどっちか、という便利の良さである。
しかし、昭和初期、相模CCが計画された頃の世間の目、ゴルファーの目は、冷たいものだった。
小田急線相模大野で、藤沢、江ノ島行きに乗り換えると、2つ目が、中央林間駅である。昔は中央林間都市駅だった。北口から大通りを左へ出ると、相模CC正門まで一直線で500メートルである。30分も置かずクラブバスが出ているが、私はいつも歩く。道の両側は、今は成熟した住宅地だが、50年前までは、まだ、戦前に区画販売された住宅分譲地の跡が、ハッキリと見てとれる町並みだった。
一帯は、小田急電鉄が江ノ島線の開通と同時に、沿線150万坪を「中央林間都市」として売り出した広大な分譲住宅地だった。その構想には、ゴルフ場建設も含まれていた。米国ではそれが当然、最近は日本でも1・2の例があるがゴルフ場を中心にして周辺に大きな高級住宅団地を開発しようという当時としては、新しい事業だった。
そのゴルフ場用地に、最初に目をつけたのは、当時借地料値上げで悩まされ、移転先を探していた駒沢の東京ゴルフ倶楽部だった。
しかし、現地視察の結果、その話は不調に終る。理由は「自動車で通うには、便利が悪い。時間がかかる」だった。
東京ゴルフ倶楽部は、皇族・貴族・財閥の集まりだ。例外なく自家用車族だ。それも「東京駅から1時間以内」という条件だった。「相模CCも充分合格圏内では?」と思うのは、現在の相模CCの交通事情だ。当時の中央林間は、国道204号線もなく、東京駅からなら2時間だった。
それにしても惜しい、と考えたグループがいた。コースは平坦な原野、土質は大粒の富士火山灰の推積地、70~80尺下にはたっぷりと地下水脈が流れ、地上には川も沼もある。巧まずしてリンクスランドではないか、と考えたのが、男爵伊藤文吉(伊藤博文の次男)ゴルフ場建設に詳しい白石多士良らだ。それに小田急の池邊稲生も加わった。
西には大山、丹沢を目睫の間にし、東には相模湾からの海軟風が吹き渡る広大な松の林帯。修景もゴルフ場のものとして極上だった。
こうして小田急の支援を受け、相模CCが発足。満鉄、正金、三菱、内務省などのサラリーマンを対象に募集を開始、「自家用車族以外」という条件だったというから、東京GCへの皮肉である。銀行の初任給70円の当時、入会金100円で募集、但し月賦もありだったから忽ち満杯、順番待ちが出たという。
分割払い募集第1号だった。
赤星六郎の処女作にして最高傑作
昭和4年4月1日小田急江ノ島線が開通。
昭和6年9月27日、相模CC9ホール仮開場。設計・赤星六郎。アマチュアでプロを抑えて唯一人日本オープン選手権に優勝したゴルフ界の偉人だ。設計したコースは、相模CC、我孫子GCの2コース。相模CCは処女作である。今や数少ない貴重な文化遺産である。
設計の赤星六郎は、相模CCについて、「私自身が抱いている夢と理想の表現であると思っている」と語っている。また「幾何学的でなく芸術的なものに理想をこめた」とも。
18万坪の平坦地に18ホールを入れることの難しさもあったようで、「敷地が狭いから距離の長いコースはとれない。その代わりに飽きのこないコースを造ってやるよ」(入澤文明氏)とも語っている。平坦な地形のため、変化をつけるため66個のバンカーを造った(現在は106個所)。そのためにひと頃は、「難しすぎる」と評判になった。
『相模カンツリー倶楽部75年史』には、赤星六郎が、全18ホールについての攻め方を書いた文章を再録している。天才アマらしい独特の表現である。例えば、相模CCのパー3は、それぞれにユニーク、ところが評判の難ホール(名ホール)10番ホール(190Y・パー3)の説明は、
「3番と6番のホールで述べた所を参照して貰えばよい」
とある。それではと3番(175Y・P3)の説明を見ると
「ショートホールというものは、パーフェクトな球を打ち、グリーンの中央に落とすことが大切であって絶対にエラーは許されない。従ってこのエラーを許さない程度にグリーン周囲のガードを強くしたつもりである」
とある。つまりパー3ではバーディを狙わずパーセーブを狙えと言っているのだ。
パー5では、12番(460Y・P5)「大きなティショットと大きなセコンドショットを望むホールである」
18番(460Y・P5)は「勇敢なドライブと力のあるセコンドショットを要求するホールである」
と2オン狙いかな?と思わせる表現で、彼のゴルフが大きくドラスティックだったことが推察される。15番(390Y・P4)でも「勇敢にアウトバウンドに近づいたドライブが、セコンドショットを容易にならしむ」
といった大胆戦術をすすめている。
相模CCを熟知することが、赤星六郎研究の一番の近道のようだ。
生きた文化遺産、相模CC
相模CCの18番ホールあるいは4番ホールのフェアウエイから見るクラブハウスは、クラブハウスの絶品だという人が多い。ゴルフ理解の深い人たちほどその声は高い。日本のクラブハウスは、2階建が多くなった。1階は、ハウスに入るなりスタートへ急ぎたがるビジットプレーヤーたちの動線と化して騒々しい。食堂やラウンジのアメニティ空間は、2階へ追い上げられてしまった。本来のクラブハウスは、アメニティ空間も1階、食事が終る、一杯飲みながらの談笑が終る。「ではもうハーフ回るか」と一歩踏み出す。すぐそこがコース、それが理想である。相模CCのクラブハウスはそうである。
広い緑青の屋根をコース側にやや傾けて見えるクラブハウスと、オーバーハングの深いエッジを持ったバンカーで造られるクラシックな表情のコース≪相模カンツリー倶楽部≫。それは日本ゴルフ史の中の生きた文化遺産である。
所在地 神奈川県大和市鶴間4018
開場日 昭和6年9月
コース 18ホール、6530ヤード・パー72
設 計 赤星六郎
コースレート 71.7
コースレコード (プロ)中村寅吉 66
(アマ)石川正志 66