第68回 立川国際カントリー倶楽部

 

 

世界を花で結ぶ「世界友の会」

立川国際カントリー倶楽部 草花コース 4番ホール

立川国際カントリー倶楽部 草花コース 4番ホール

最初は、「世界友の会・立川国際カントリー倶楽部」という長い名称で始った。時に昭和32年9月。前身は、昭和23年創立の社団法人国連友の会だった。事業の一つに日本の桜の苗木、種子を諸外国に贈り、交換に各国の国花の種苗を寄贈して貰って育てる仕事があった。育てるためには最適の用地が必要と探し当てたのが、東京都指定羽村丘陵自然公園域内の多西地区山林30万坪、現在地である。
今ではJR中央、青梅線快速で新宿から40分の東京都あきる野市草花2390。今は東京のベッドタウンになっているが、明治時代は神奈川県の一部で、世界友の会会長中嶋久万吉の父は、神奈川県令(知事)だった。コース用地の中心多西村は、大正10年4月菅生、草花、瀬戸岡、原小宮の4村が合併したもの。更に昭和40年東秋留村と合併秋多町となり、以後秋川市、あきる野市と発展してきた。現在の地番にも草花の2字、コース名にも草花コースの名称が残るのは、世界を花で結ぶという世界友の会の志の名残りである。
昭和32年8月、世界友の会の目的を達するための事業としてゴルフ場を計画したか、昭和32年8月、世界友の会立川ゴルフパーク(株)を設立(代表・小松製作所社長河合良成)さらに同年9月世界友の会立川国際カントリー倶楽部も。発起人代表は中嶋久万吉、他に伍堂輝雄、永野重雄ら財界人がズラリ、事務所は、丸の内の日本工業倶楽部内。財界総動員のバックアップでスタートしたが、ゴルフ界では、小松製作所のゴルフ場と思われていた。
昭和33年4月8日、18ホールの建設に着工。建設は、伊豆一碧湖でゴルフ場を建設、経営する新日本観光興業(佐々木真太郎社長)と契約。コース設計は、当初は佐々木真太郎、その後丸毛信勝博士に変更された。この間に「ゴルフ場は、公益法人になじまない」と、倶楽部名、社名から「世界友の会」の冠称を除き、立川ゴルフパーク(株) 立川国際カントリー倶楽部と変更している。
以上が、立川国際CCの濫觴である。

昭和34~64年の36ホールの足跡

立川国際カントリー倶楽部 草花コース 10番ホール

立川国際カントリー倶楽部 草花コース 10番ホール

筆者には立川国際CCには、思い出という単語の一つでは盛り切れないような記憶が残っている。
ゴルフコースのある草花あきる野丘陵の左手には幅員50メートルの多摩川がゆったりと流れている。その向う岸の福生市に住んでいた昭和36年頃の筆者には、立川国際CCは、隣りの道場のようなものだった。
ビギナーだった筆者たちの集りで、立川セブン会という集りがあった。セブンは、平均して1ホール7ストローク叩くというほどの意味だ。当時立川国際CCの常務取締役だった内山英雄氏が、若いゴルフ記者の勉強のためにと、つくった3ヶ月に1回のゴルフコンペだった。
当時の立川国際CCは、すでに36ホールだった。昭和33年12月、第1(草花)コースが9ホールで仮開場、クラブハウスも完成。34年8月10日インコース完成、18ホール・6525ヤード パー71。設計丸毛信勝。昭和35年9月第二(奥多摩)コースが、18ホール・6805ヤード・パー73で開場。都下で唯一の36ホール、さらに奥多摩コースは、草花コースの外側をぐるりと18ホール1ラウンドしてクラブハウスに戻ってくる1ラウンドスルーの設計(丸毛信勝)のコースとして、開場当初から評判となった。
ビギナーの集りだったセブン会の利用は、短い草花コースで、長くて難しい奥多摩コースは、立川国際CCのチャンピオンコースとして敬遠していた。
立川国際CCは、都下では唯一36ホールもある、小松製作所バックのゴルフコースとして評判になった。しかしラウンドしてみてがっくり、あまりにもヒーリーで狭い、特に草花コースは、短くて狭く、部分的にヒーリーにすぎると、一般の点数は辛かった。
参考のため昭和38年度版『全国ゴルフ場案内』(週刊ゴルフ発行)による立川国際CCの解説の頭書きは、
「第1コースは川奈の大島コース、第2コースは富士コースの様に、距離の差は勿論、スコアの善悪も甚しい。立川コース全体についていえることは、①冒険を冒すな、②無理をするなということです」
と戒めている。セブン会の連中には、耳に痛い警告だった筈だが…。
そこで平成1年から6年をかけて、草花コースの大改造が実施され、草花コースは生れ変わり、“チャンピオンコース”の座を、奥多摩コースから奪取したのだった。

水準以上の楽しさ“草花コース”

立川国際カントリー倶楽部 草花コース 13番ホール

立川国際カントリー倶楽部 草花コース 13番ホール

コースガイドでは、第1コースは川奈の大島コースのように易しいと書いているが、小生は、8、9番ホールでOB連発20ストロークを叩き、7番までのパープレーを、一気に爆死させてしまったくやしい記憶がある。
大改造で草花コースは、どう生れ変ったか。
筆者は、改造後のラウンド評で、
「全く新しいプレイアビリティをつくり上げた、という点で、これは改造を超えて、新しいコースの出現と考えた方がいいのかもしれない」
と書いている。
スタートの1番は、旧ホールは、緩やかに打ち下す220ヤードの短いパー4で、グリーン背後に小さな川があった。現ホールはそれを超えて382ヤードに延長、グリーンはやや打ち上げ、グリーン回りは、アメリカ調で堅めている。
旧2番は、左側に田園を見ながらの平坦なパー5だったが、1番の延伸につれて現2番は(392ヤード・パー4)と短くなった。
旧3番ホールは、275ヤード・パー4と短いが変型、さらにグリーンも見えるのは旗の頭だけという急勾配の打ち上げで、冬場になるとショートしたボールがくるくるとテイグラウンドまで戻ってくることも。凄まじいトリッキーホールだった。それが旧4番と合体することで、殆んど水平に打ち出して行くデザインバランスのいいホールに化身した印象だ。
現4、5番ホールは、旧コースではデッドスペースだった土地を活用、時代性向ピタリのホールにして成功している。
問題は、セブン会の頃、2ホールで20の大叩きをした旧8番、旧9番ホールである。それらはホール構成から変っていた。旧9番が現6番、旧8番は殆んど変らず現7番。旧7番が現9番ホールで、その間に新しくパー3の現8番がつくられている。
旧9番を半ば生かした現6番ホールは扱いやすくなっていて、これならOB禍に震える心配はない。510ヤード・パー5の旧9番は、阻崖の中腹にへばりついた小さなグリーンへ打ち上げる難しさがあったが、旧7番のフェアウェイを打ち下して行く現9番グリーンは、崖下のふところに平坦に納められていて、これなら20ストロークもの大叩きの悲劇は起らない。
新しいプレイアビリティを創り出した一番の見本が現10番ホールだ。打ち下しのスペクタクルな第1打は変らないが、355ヤードの旧10番と225ヤードの旧11番とつないで498ヤードの見事なパー5を創り出した豪胆さに驚く。右の池、小川と左の山裾でくくってみせた第3打の攻めの景色がいい。
旧12番ホールは完全抹消された。代ってやや左側へズラして、186ヤード池越え、庭園風のパー3が新しく生れた。
現在の13、14、15番ホールは、全く新しいホールと考えた方が分りやすいし攻めやすい。
18番ホールは、右側に小川を伴走させたスタイルはそのまま、20ヤード延びて531ヤード。グリーンがやや低くなってグリーンモールドも改良されている。
この大改造によって、草花コースが奥多摩コースに代って、立川国際CCのチャンピオンコースになったようだ。(データは後出)
18ホール・6651ヤード・パー72の規模は、パワーゴルフではなく、楽しいゴルフの舞台としては水準以上の大きさ、高さである。もっと評価されてよい。(その発想から、平成10年にラウンドした改造草花コースの感想文を元に、この文章を書いたものである。)

所在地      東京都あきる野市草花2390
コース規模    草花   18H   6651Y・P72
奥多摩  18H   6499Y・P72
コースレート   草花   71.4   奥多摩   71.3
設計者      草花   鹿島建設    奥多摩   丸毛信勝
開場年月日    昭和34年8月10日
経営       立川ゴルフパーク(株)