第41回 紫カントリークラブすみれコース
野田郊外、松の平地林に動き出す
紫カントリークラブ・すみれコースが、昨年生れ変った。小林英年設計の修景として美しく、戦略度としても日本有数な18ホールが、米国人設計家、ダミアン・パスクーツォによって改造された。どこが変わったか。一番大きな変化は、インコースとアウトコースが入れ換ったことである。
誕生から振り返ってみよう。
関東地方の各コースは、埼玉県の入間台地の松の平地林に東京G、霞ヶ関CCなど、千葉県野田市郊外目吹地区から利根川を渡った茨城南部猿島地区にかけての松の平地林には、千葉CC、紫CC、大利根CCがある。なぜ“松の平地林”か。松は、檜や杉と違って建材、家具材としては役立たずだ。伐根するのも難儀で、畑地にも使えない。そこで今流行の西洋スポーツゴルフを、と考えたのが、入間台地の発知庄平翁だった。(今、霞ヶ関CC西コース、13番能登池畔に銅像として残る)
しかし野田郊外では、事情が違っていた。昭和27年、野田郊外の松と雑木の平地林に目をつけたのは、千葉県森林組合連合会専務理事志田一郎だった。後の千葉CC専務取締役だ。最初に目をつけたのは、現在の千葉CC梅郷コースのある目吹地区。小林英年設計、藤田欽哉、井上誠一監修で交渉するが、地主の茂木克己の合意がなく、失敗する。
野田の松の平地林は、自生ではなく、醤油の醸造元茂木家が、燃料用として植林したものだった。松はヤニが多く、50年生になると大きな火力となって重宝されていたのだ。
しかし5年経って社会は一変する。燃料はガソリンに代り、梅郷をしくじって弁天池林地から出発した千葉CC野田コースには、毎週土、日曜には車の行列ができる賑いだったと、『むらさきの30年』が書いている。
それを見た目吹地区の地主たちが、地元の殿様企業キッコーマンの野田醤油に働きかけた。時勢である。それにパブリックのあやめコース部分を中心に、松の平地林の大きい部分が、茂木一族の所有だった。スムーズに進んで、昭和35年紫興業(株)が設立された。
ゴルフ界が瞠目した紫CC誕生
「紫(むらさき)」という名称は、当時としては意表をつく珍しさだった。地名か、○○国際がゴルフクラブ名称の主流だった時代だからだ。醤油の俗称の一つに、“むらさき”がある。醤油最大手の茂木一族のゴルフクラブだから“むらさき”だ、と言う人も、そうだと合点しているゴルフ族も少なくなかった。
しかしそれは違う。命名者は作家・吉川英治だった。いわく
「紫といえば、武蔵野が浮かんでくる。紫草と武蔵野の土とは、切っても切れない縁である。彩しいこのコースの名称を紫と名づけようではないかという。
誰がふと思いついたのやら優しいゴルファーもあるものとほほ笑まれた。
紫。日本的な香りがする。」
この文章はまだ一部。全文のレリーフは、クラブハウス内に掲出されている。なお吉川英治は、すみれコースの永世会員だった。
二つ目の驚きは、むらさきの「M」をモチーフにした吉川清作設計のクラブハウスの登場だ。形状、景観、佇まいとも全く新しいものだった。名門コースのクラブハウスといえば、レイモンド設計事務所設計の2階建洋館という一種のステロタイプの中で、それは目を瞠る新鮮さで映った。
各ホールのティグラウンドに置かれた彫刻家今里龍生(太平洋美術会)作の動物のブロンズ像も、すみれコースにだけ特有の名物だ。1番ホールから笑うライオン、野羊の歩み、豹の足、象の背、熊の哄笑と続き、インコースは、10番虎の尾、11番シマリスの丘、牛の散歩、猪の突進、馬のキック、犬の走りと続き〆は猿の跳躍、鹿の帰り道でホールアウトである。初代理事長竹内四郎(報知新聞社長)が米国のある名門コースに見かけた彫刻にヒントを得たものという。各ホールの地形、雰囲気を表現したものだが、例をあげると、16番パー5の“駱駝のコブ”は、コブに見たてたふたつの砲台グリーンがあり、一番長い13番パー5“象の背”は、象の背は広いが、背中だから微妙に両側の林へ傾斜し、二つのグリーンは象の耳の形で大きい、といった具合で、動物園と見立てればおもしろいとパンフに書く。さらにまたクラブでは「6番パー3で、左へ池ポチャした」といわず“狸のホールで池ポチャ”と言ってほしい、とも言っている。
これらの特長を総括して表現すると、「新しい雰囲気を持った教養派コース」の出現である。
昭和36年4月16日すみれコース開場式、18ホール・7070ヤード・パー72。設計小林英年。8月パブリックのあやめコース27ホールも開場している。
ダミアンの改造設計
小林英年は、派手な存在の設計家ではない。しかし八王子CC、葵GC、赤城国際CC、そして紫すみれCと、少くとも75点以上の安定感のある作品を残している。中でもすみれコースは、関東でも30指に入るコースだった。
それが改造された。それもゴルフ理解の在り方と価値観と美学が違うと思われる米国人設計家によって改造される必要があったか、疑問が残る。
しかしダミアン・パスクーツォとツアープロ・スティーブ・ペイトによる2Pゴルフコースデザイン社の改造設計が、たとえば2グリーンを維持したままの改造だったこと、つまり抑利的だったことは評価できる。また古いコースと名コースはイコールではない、というダミアンの考えには、賛成である。改造の狙いは、プロのトーナメント、アマの公式競技の開催も視野に入れての改造だという。
総ヤーデージは、7070ヤードから7180ヤードへ110ヤード延びただけだが、「バンカーや池といったハザード類やフェアウェイラインの見直しを含め、ホールにメリハリを付ける」ことで、パー5は安易な2オンを阻止し難易度を高め、「ティショットはドライバーで」という安易な攻め方は許さず、第1打からクラブの選択を迷わせるパー5にしたという。パー3ホールは、ヤーデージに変化をつけたのが判る。その代表例をあげよう。
6番(旧15番・兎の眼)181ヤード・パー3。左グリーン左前~左に池を新設、池を避け右から攻めようとすると、グリーン周りの松が邪魔をする。ピン位置によって攻め方、攻めラインが多くも少くもなり、難易度も変化する、厳しい覚悟で攻めるか、取り敢えずオン・グリーンの安全策で行くか…二者択一だ。
12番(旧3番・牛の散歩)495ヤード・パー5。最も短いパー5。2オンOKのコースだが、敢えてヤーデージは伸ばさず、左グリーンの左側に沿った池を拡張し、グリーンに近づけることで、さり気なく罠に落し込むようにしていると、専属プロは解説する。
18番(旧9番・キリンの首)523ヤード・パー5。延長したのは僅か3ヤードだが、改造設計者が、一番こだわったホールである。2オンも可能だが、第1打で、計算して置かれたフェアウェイ両脇のバンカーをどう避けるか、第2打でフェアウェイ中央の大きな独立樹をどう処理するか、グリーンと池の間に落ちたボールは辷るように池へ、池、グリーン、バンカーとトラップはいっぱい。唯一の報酬は、気力いっぱいに打ったピン傍へのピッチ、そこにはデッキという平らなエリアが待っているとか。短い第3打で大胆なピン狙いだ。(以上各ホールの攻め方は、クラブパンフを参考)
キッコーマンの茂木一族中心に始った紫興業・紫カントリークラブには、昭和54年国際興業(株)が経営参加、現在はそのグループ傘下にある。
所在地 千葉県野田市目吹111
コース 18ホール・7180ヤード・パー72
設計者 小林 英年
改造設計 パスクーツォ×ペイト
2Pゴルフコースデザイン社
コースレート (改造前)73.5
コースレコード プロ 内田袈裟彦 66
アマ 倉本繁男 71
(改造前)