第81回 レインボーカントリー倶楽部

レインボーカントリー倶楽部 クラブハウス

レインボーカントリー倶楽部 クラブハウス

 

 

 「青い山脈」の中の小さな陽溜り

 東京高速を東京へ向う。大井インターを過ぎて15分、秦野・中井インターまで5分という頃合いだ。左手の山陰の切れ間に一瞬、ゴルフコースとクラブハウスが見える。レインボーカントリー倶楽部のコースである。神奈川県足柄上郡中井町境別所である。
 秦野ICを出て、西へ走ること10分、秦野の市街地である。さらに進むと小田急と  小川が併走していて、その川畔に秦野高校が見えてくる。
 昭和20~30年代前期の頃、石坂洋次郎原作、池部良、杉葉子主演の『青い山脈』という青春映画が大ヒットした。原作の舞台は、石坂氏の故郷青森県だが、映画撮影は、秦野高校を舞台に行われたそうだ。
 『青い山脈』 に擬せられた渋沢丘陵は、秦野高校の東方約1キロ、高さ約100メートル程の高さで、左から右へ秦野から隣驛渋沢の地先まで延びた丘陵で、頂上は殆ど水平で、北端に近く、大正来期の関東大震災で生れた震生湖がある。レインボーCCは、当初計画では、震生湖周辺に18ホールを展開する計画だったが、震生湖は史蹟ということで許可が下りなかったようだ。
 結局、震生湖とは反対側の境別所の小盆地に計画を進めることになる。高速道を走りながら、チラリと見えたあの小盆地である。南面の小盆地は暖い。年中積雪しらず。湘南の陽だまりだ。ここでもクラブハウスは、丘陵の平坦な頂上部分に置き、1番ティーとの間は、エレベーターで上下する案だったが、これも未遂に終って、クラブハウスは現状の位置に落ち着いた。
 因みに、クラブハウス予定地には、後に水の江滝子さんの邸宅が建てられて有名になった。
 
 「レインボー」の由来 
   
 以上、部外者には知られざる筈の詳しい経緯を書くのは、小生が、レインボーCCの創業時の現地で働いていた中堅幹部と懇意で、いろいろと要請に応じて働いていた経緯があるからである。
 最初は、まだ現地事務所が、中井町役場の一角にかくれるように小さく足柄ゴルフ倶楽部という小さな標札を掲げていた頃、昭和39年だったろうか。町役場の一隅に表札が掲げられていた経緯は知らない。ゴルフ場開発に中井町当局の     積極的応援があったのだろうか。コース用地となる小盆地が、その昔、中井町周辺の水源地だったからだろうか。
 会員募集が近づくにつれて、足柄GCでは田舎っぽい、新宿から遠い印象が強い、という反対論が出て、代案として浮んだ有力候補が「レインボー」だった。経営母体の新宿ステーションビルのある新宿ターミナルには、当時7本の鉄道、地下鉄が乗り入れていた。7本だから7色レインボーである。地元スタッフからは用地となる盆地は、昔は水源地、暖かい冬日の朝には、小さな虹がかることがあったという。だからレインボー。
 しかし50年前の日本ゴルフ界では、東京GCも霞ヶ関CCも鷹の台GCも、関西の廣野GC、茨城GCも、地元地名を冠称にしている、それが慣習だった。レインボーには、悪趣味だ、キャバレーみたいと反対が多かった。しかし結論は、レインボーCCと決定。
 カタカナ名称のゴルフ場第1号と見る人もいた。むろん現在、カタカナ名称のゴルフクラブは溢れていて、誰も疑わない。
 
 “新宿ゴルフ族”のホームコース

 昭和44年7月19日、新宿から小田急で秦野まで50分、東名で東京ICから45分、渋沢丘陵の南面の陽溜りに新宿ステーションビルを中心とした広い商域で生活し、営み、勤務する“新宿族”のためのコース、レインボーカントリー倶楽部(理事長河野謙三、社長潮江尚正)がオープンした。総面積660平方m(約26万坪)18ホール・6760ヤード・パー72。コース設計富沢誠造・広親。誠造は、昭和30~40年代のゴルフ新設ブームの中で、井上誠一と並ぶ名匠として人気抜群、70コースを設計した有名人である。井上がチャンピオンコースを追究したのに対し、誠造には、やや大衆に向いたコースが多い。名コースの代名詞のように使われた林間コースという表現は、昭和33年誠造が船橋CCを設計した時に流行し始めた言葉である。つまり誠造は立木にセパレートされた平地のコースが得意だった。子息広親は、誠造の元で設計術を学ぶ(その間共作9コース)その後米国で本格修行して帰国。残念ながら56歳で夭折するが、名作恵庭CC他22コースを遺している。
 小盆地という地形は、平地コースが得意の富沢誠造を途惑わせただろうが、実現したコースは、ズバリ現地形を利用して、第1打豪快な打ち下し、第2打、第3打のグリーン狙いは打ち上げというホールが多くなった。第1打打ち下しホールが多いのは、コース全体を豪快に見せる、飛距離を出しやすいというプラス効果はあるが、OBが出る、狙う場所に落し難いといった戦略上の難点もある。そこで富沢設計は、第1打の落下点となるフェアウェイを広くするという方法を利用しているようだ。
  たとえば10番ホールは、第1打が大きな打ち下し、然し右はOBの深い谷だ。OBが出やすい。そこで設計は、第一打落下点のファエアウェイ左サイドを広くとって助け、さらにグリーン狙いも、左からのショットがナイスオンしやすい設計になっている。
 深く解釈すれば、このコースの設計者はプレーヤーに勇者の攻めを求めるのではなく、安全に攻めてパーセーブという、もう1つのホスピタリティを約束しようとしているのではないだろうか。
 そういう目で見れば、パー3を除く全14ホールが揃って、第1打のフェアウェイが広く取られているように見えてくるのは、目の錯覚か・・・(本開場後も、ファアウェイの拡幅、グリーンへ上る登坂、ファアウェイの修正、総ヤーデージの延長など、間断のないコース改造、修正が続けられた。その間、総ヤーデージは、6760ヤードから7044ヤードまで延長されている。)
 本稿は、平成15年、大改造が終った後のプレー記録を参考に書いている。10年前のレインボーCCがイメージの因である。その時も、「オープン時法面に植えられた小さな樹木が、30年経って壮年の枝を拡げている」と、30年経っての歳月美の輝きに触れている。あれからさらに10年である。60年前「林間コース」と褒められた船橋CCが、一昨々年廻ったら「森林コース」に深化していたように、歳月美の変化を、ここでも連想したりした。
 コースは、小丘を集めたような姿、地形だから各ホールはひとつも同じ顔がない。虹彩は多彩を意味するということだが。改造で、打ち上げホールは殆んど修正されたが、打ち下しの豪快さは、数ホール毎に楽しめて、今もこのコースのダイナミズムとなっている。
 平常のレインボーカントリー倶楽部は、目立ず、大きな言挙げすることもなく、倶楽部は堅実に運営され、好感が持てる存在で、もっと高く評価されてもよい。
 
所在地     神奈川県足柄上郡中井町境別所726
コース規模   18ホール・7044ヤード・パー72
          コースレート・72.4
設計者     富沢誠造・広親
開場年月日  昭和44年7月19日
経営       東名企画(株)