第4回 川奈ホテル富士コース

川奈ホテル2番ホールから 

2番フェアウェイから湾を挟んで川奈ホテルを望む

 川奈ホテルを築いた大倉喜七郎は、明治維新の戍辰戦争で官軍に銃砲を納入、日清、日露戦争でも銃器納入と軍備輸送で大儲けした大倉財閥の3代目。7年間の英国留学から帰国する時、最高級自動車5台を土産に持ち帰ったというエピソードが残る。元祖プレイボーイ、最後のミリオネアと言われた。

 昭和35年頃、筆者がゴルフ記者になる前、自動車雑誌記者としてその車のエピソードの取材で出かけたことがある。終って、余談になった中で「英国留学中、イギリス特有の牧場を中心としたカントリーライフに心惹かれた。川奈では、牧場を造る計画で、60万坪を買った。ところが土地が溶岩質で、動物が蹄を傷めて無理と判った。だからゴルフ場にした」という話が飛び出した。川奈ホテルゴルフ場の由来である。
 昭和3年6月、大島コース・18ホール、5711ヤード・パー70が開場。設計は、ゴルフ界の大御所大谷光明、「ホテル付設のビギナー向けだった」と語っている。川奈の断崖上に造った手造りコースだが、各ホールは自然の地形をそのままに働かせた個性あるホールである。熊谷さん宅の屋根スレスレに打ち抜く「熊谷アドベンチャー」(10番)源為朝が歩いた道のような「タメトモ・プロムナード」(11番)ミスしたら深い海へドボンの「グッドバイ」(13番・パー3)などおもしろいニックネームの18ホールが続く。今は、2人乗り乗用カートでのセルフプレー、気楽にゴルフコースの古典を楽しめる。(アウトとインが入れ替わっているので、古いゴルファーは注意しよう)

 

15番ホール

海沿いの断崖美で有名、16番(パー5)

C・H・アリソン設計、富士コースの魅力

 川奈ホテル・富士コースは開場昭和11年12月。18ホール・6192ヤード・パー72、設計C・H・アリソン。
 川奈ホテル・富士コースを世界的に有名にしたのは、昭和36年に開かれた第3回世界アマチュア(国別対抗)選手権だった。セント・アンドリュース、メリオンに次ぐ第3回大会。世界は川奈を、世界3番目のゴルフリゾートとして指名したのである。
 現在でも、世界の殆んどの「ベストコースランキング」調査で、100位以内から落ちることがないのは、日本では廣野GCと川奈富士コースだけである。
 日本国内では、戦前から昭和30年代まで、「ゴルファーなら年に1回川奈をプレーせずしてゴルフを語るな」といわれた。今でも正月休暇2週間は、忽ち予約でいっぱいになる。
 大倉喜七郎は、ビギナー用18ホールとチャンピオンシップコース18ホールを造る計画だった。しかし、昭和3年大島コースが開場してから、昭和11年富士コースが9ホール仮開場するまで、8年間のズレがある。なぜ富士コース開場が遅れたか。二つの思わぬ出来事が起った。
 実は、富士コースは、大谷光明監修、赤星六郎設計で建設されていたのだ。資料が散逸しているが、昭和4年9月の東京朝日新聞に建設中のコース18ホール・7084ヤードが完成という記事があり、昭和6年の『ゴルフドム』誌には、川奈ホテルに2コースの記事があるとの記録が残る。
 現在もっとも一般的にいわれているのは、赤星設計が6、7ホール進んだ段階で、昭和5年東京ゴルフ倶楽部朝霞コースと廣野ゴルフ倶楽部の設計で来日中のC・H・アリソンに注目した大倉が、アリソン設計に転換したという説である。(但し、当時プロ見習で働いていたOBプロの1人は、赤星設計は殆んど完成していて、アリソンは手直しだとも証言している)
 因みに、赤星設計図は現在クラブハウスの廊下壁面に掲出されているので、参考にするとよかろう。現在の1番ホールは、1、2番ホールとして設計され、現在の15番ホールも現15番ホールに沿った16番ホールの他に現7番グリーン背後へ打つパー3と、そこから現15番グリーンへ打つパー4に分かれたもう1つのルートを提案するなど、現アリソン設計とは大きく異なっている。10番ホール〜12番も、現行とは全く違うルーティングになっているから、やはり現富士コースは、アリソンのオリジナルであって手直しの域を越えていると、考えるのが順当であろう。
 川奈を訪れたアリソンは、川奈岬の断崖美に心を奪われるようだったというから、一番力を入れたのは、海沿い現15番、16番、17番ホールだったろう。見方を変えれば、大倉に「岩盤が固く動物たちが蹄を傷める」として牧場をあきらめさせたその溶岩層が、富士コースの魅力の中心となっているのだ。
 15番(470ヤード・パー5)左に太平洋を見下しながら、約20メートルを打ち下ろしてゆく第1打は、スリリングで豪快。しかもフェアウェイは堅い岩盤で、海側へ傾いている。ヤーデージは短いが、心胆を寒からしめる地形だから正確に3オンを狙いたい。
 16番(185ヤード・パー3)約7ヤードの高く、小さなグリーンへ向かって打ち上げる難しいパー3。3人に1人1オンすればいい方だ。因みに、戦後占領中の英豪軍が、高すぎるとして約1メートル切り下げたのが現在のグリーンだ。戦前はもっと険しかったのだ。
 17番(410ヤード・パー4)随一の難ホールだ。フェアウェイは、第1打の落下地点で右へ傾き、右ラフへ落したら、残り180ヤード以上を約30ヤード高く掲げたグリーンへ狙うことになる。グリーン前には、身長に2倍する巨大アリソンバンカーが待構える。
 グリーンオーバーすればまたもバンカーだから厄介。左、左と3オン狙い。ボギーでもいいか。
 (現在のプロ競技では、臨時に18番を1番ホールとしてスタートするので、15番が16番、16番が17番と1つずつズレて、17番が最終18番ホールとして使用されている。)

7番ホール

アリソン流設計を駆使した7番(パー4)のフェアウェイからグリーンへ

モダンクラシック調・3番・7番ホール

コース設計上注目したいのは、3番ホールと7番ホールだ。
 3番(450ヤード・パー5)短いのになぜパー5か、優れた戦略性があるからだ。
 第1打で右折れ、以後、上りつづける展開だが、第1打の落下点に3個のバンカーがある。左から右へ、どのバンカーを越えるか、飛距離の選択を迫られる場面だ。アリソンと師匠H・Sコルトが唱えたダイアゴナル・ハザード理論の採用である。
 7番(393ヤード・パー4)このホールはフルバックティからプレーしてみたいものだ。レギュラーティでは、このホールの真骨頂を味合わずに終る。ティから約30ヤードを打ち下ろす俯瞰図の景色でみると、ティからみて斜めに置かれたフェアウェイは、中央を緩やかで低いマウンド列で区切られた2本のフェアウェイになっている。右のフェアウェイが正しい道だが右流れになる。手前のルートでも3個のバンカーを用心すればチャンスはある。小さくてフロントに向かってスロープの急なグリーン狙いがカギ。多様な設計は、多様な攻め方、おもしろさを約束する。もう1つ、印象度が深いのは、11番ホールだ。
 11番(619ヤード・パー5)グリーンの後に白い燈台が見えるライトホールだ。スコットランドでは、ライトホールはそのコースのシンボルホールだ。619ヤードと長いが、ハンディキャップ1になっているのは長さだけではない。ティからグリーン狙いのアプローチに至るまで、自然の形のままに語らせ働かせたフェアウェイの変幻を見抜かないでプレーしたら、飛ぶ人でもスコアにならないホールだ。

川奈・富士コースの謎と史蹟

 あなたは、11番ライトホールを終って、12番ティに向かう間に、一人前のティグラウンドがあるのに気づいたことがあるだろうか。気づいたらティに上がって海の方を見よう。そこは12番ホールのフルバックティではない。海の方向断崖上をかすめて打つ150ヤード先に、一人前にエレベートされたグリーンがあるのに気づく筈だ。
 富士コースのホール案内ブックには、最終ページEXTRA(159ヤード・パー3)と記されている。別称<大倉ホール>とある。12番ティが詰まっているとき、大倉さんがここで2、3発練習ショットをしたのか、と思わせるネーミングだが、ガイドブックには、昭和32年当時8番(パー3)ホールを休ませる時使用した。現在は使用していない、と素気ない説明だ。実は、後に有名プロとなるヒデ坊、富士坊ら腕自慢連が、ここで隠れゴルフ遊びをしたという噂もある。
 EXTRAホールのグリーン奥、ブッシュに隠れた一画に、幕末のお台場砲台跡が残されているのを知る人は、“川奈検定”トップ合格の物知りだ。幕末期の黒船来襲で世の中が騒がしくなった時、韮山代官支配江川英龍に命じて下田港防衛のために築かせた川奈崎台場の砲台跡である。場所は、EXTRAホール・グリーンの背後の海よりの崖際、昔風にいえば石取崎の崖ぎりぎりの南北22メートルの略方形の石垣に囲まれた約140坪の広場である。石垣の内側に土嚢、内堀を築いていた形跡が残る。備えた大砲は、夕顔型臼砲2門、長さ7尺の円柱型カノン砲1門の計3門。しかし下田の風雲急となり、取り外されて下田へ運ばれ、ついに川奈岬で火を吐くことはなかった。
(付記、なお大島コース開場と富士コース開場の間が8年も長い時間を置いたもう1つの理由は、昭和8年、9年にかけ静岡県がゴルフ税1人1円の重税を課したことに対し、大倉が反発、大島コースを閉鎖して抵抗したことがある。この紛争は、結局政界の仲介で、事実上川奈ホテル側の勝利に終るが、このことの詳細は別の機会に譲ることにする)