第20回 スリーハンドレッドクラブ

ニッポンのバーニングツリークラブ

スリーハンドレッドクラブ9番ホールからクラブハウス

スリーハンドレッドクラブ9番ホールからクラブハウス

 スリーハンドレッドクラブは、日本一エクスクルーシブ(exclusive)なクラブである。エクスクルーシブを、排他的、特権的と読むか、単純に高級なと、読むか、読み方はいろいろある。昭和36年、他コースが20万、30万円で会員募集している時、220万円で募集開始、名門程ヶ谷CCが12,000円の年会費を取っている時、10万円の年会費を取っていたクラブだ。当時は一般ゴルファーとは縁のない閉鎖的なゴルフクラブと考えられていた。今はどうだろうか。
 スリーハンドレッドクラブのゴルフコースは、昭和37年9月23日、東急電鉄が、神奈川県茅ヶ崎に造り上げた18ホールのゴルフ場とそこに拠るベリー・プライベートなメンバークラブである。入会金平均300万円で会員定員300名を集めたから“300クラブ”と考えられていた。実際は、土地買収に手間取り、坪1,200円の値が15,000円まで上昇したので、会員枠を399名まで膨らましている。但し会員数が最も多かったのは、346名(昭和47年3月)だったようだ。
 入会基準は厳しいものだった。政治家は首相、外相の経験者に限る。日本駐在の外国大使は入会金なしでOK、財界人は、一部上場企業で50歳以上と狭き門だった。この入会基準は、ワシントン郊外で、“大統領のゴルフ”と異名をもつ名門バーニングツリーゴルフクラブに倣ったものである。アイゼンハウアー大統領と岸首相が、安保協定で裸の会議をした名門クラブである。このことはスリーハンドレッドクラブがそのプライドをどの辺に置こうとしたか、想像する手懸かりになる。
 (因みに、スリーハンドレッドクラブでの年会費10万円は、納付した10万円から、来場毎の消費額を償却して行って、使い切ればさらに10万円を追加納入するというシステムである。日本では珍しいが、クラブの経費はメンバーが支えるとする米国のプライベートクラブで多く採用されている方法である)

 「東大ゴルフ部出身」と自称した男

 スリーハンドレッドクラブ誕生には、二つの動機があった。そして二つながらその主役は、五島昇だった。
 五島昇は、東京急行(東急)電鉄の創業者五島慶太の長男である。警察官僚から実業界に入った父慶太を、戦前東急の創業者とすれば、息子昇は、戦後東急の中興の人である。
 昭和21年、後に総理大臣となる中曽根康弘は、各界から復員したばかりの青年将校たち各20人を集めて。青年懇話会という集まりを作り、その中に五島昇もいた。毎月集り、米国による占領政策を批判しながら、日本再建と復興の誤らない道を探るというのが目的だった。いわば憂国の士の集りだった。
 一方、昇にはもう1つの狙いがあった。昇は、東急電鉄の二代目総帥であると同時に、ふざけて「東京大学ゴルフ部卒業」と自称するほどのゴルフ好き。大学時代からの名手だった。ハンディキャップ2。すでに東急系ゴルフ場として砧、多摩川の2コースを、自らのコース設計で造り上げていた。
 かねてから、「人と人を結びつけるのに、ゴルフほど健康なものはない」が信条で、財界サロン的なゴルフクラブを造ろうという計画を抱いていた。
 この二つの動機が合わさって、スリーハンドレッドクラブが生まれ、青年懇話会もゴルフ会を発足させる。青年ゴルフ会会長・中曽根康弘は、(株)スリーハンドレッドクラブ取締役会長を勤めている。現在、9番グリーンをホールアウトした上に造られている数奇屋造り、苔庭の「鎮守の森」は、青年懇話会のために造られた建物だった。現在は特別ゲスト倶楽部としてメンバーが利用している。なお、平成元年、昇が死亡した後も青年懇話会ゴルフ会は続けられていた。
 以上の事実から見ても、スリーハンドレッドクラブを、単なる特権富裕階級のための閉鎖的な超高級ゴルフクラブと考えるのは、正確さを欠いた誤解だと分る。

 難ホールは、9番・10番

スリーハンドレッドクラブ1番ホール

スリーハンドレッドクラブ1番ホール

 計画は、昭和32年、神奈川県議会議長・添田義信が茅ヶ崎北部開発計画の一環として、「茅ヶ崎ゴルフ場」計画を、五島慶太会長に持ち込んだことに始まっている。
 昭和46年5月着工、用地を買い足しながらの工事だった。設計は東京急行衛星都市建設部だが、実際の主設計は、砧G、多摩川Gに続いて五島昇がレイアウトのアウトラインを決定、建設部の技術員・黒澤長夫が施工図に仕上げ、それを砧Gのグリーンキーパー宮沢長平がグリーン、バンカーなどの詳細設計を仕上げた。2人とも後に歴としたコース設計家となる。スリーハンドレッドクラブのコースは、日本のゴルフ場として初めてグリーンにペンクロスクリーピングベントグラスを採用したコースとして記憶されている。値段が、他のベントグラスの12倍だったといわれている。
 筆者は、このコースを工事中から知っている。土工事は、原地形の等高線をなぞるように行われ、土量移動は、18ホールで僅か12万リューべに過ぎなかった。あまりに土量移動が少ないために、9番グリーン前のハロー(窪地)は埋め戻すことができず、深い谷のまま利用されたため、今日ではこのコースで最高の戦略ポイントとして人気を集めている。中曽根元総理をして「あのホールは結局手で投げるよりない」と嘆かせているほどである。因みに設計の五島昇は、9番、10番ホールの戦略的な地形を生涯愛していて、「この2ホールは永久に改造してはいけない」と遺言しているといわれる。10番ホールは、ハウス傍らの高見から、谷の狭間を打ち下して進む440ヤード・パー4である。この2ホールが、スリーハンドレッドクラブのアーメンコーナーである。

森林公園のような18ホール

 開場した頃のスリーハンドレッドクラブでは、腰高ぐらいの植栽がなされていた記憶だけで、特別に大木の独立樹が目立つということもなかった。多くの木々の背丈は低く、相模湾まで見渡すことができた。
 話は飛ぶ。10年ほど前、川奈、富士コースで、河野プロと同じ組でプレーした。河野プロは、若い頃スリーハンドレッドクラブに近い湘南CCの所属プロだった。今も詳しいだろうと考え、「最近のスリーハンドレッドはどうですか」と聞いてみると、「樹々が立派に育ち過ぎた。両側の木々がフェアウエイにかぶさっていて、高い球が打てない。景観としては見事だが、ゴルフをやるにはどうかな」という意味の返事だった。
 その言葉が気がかりで、1組3人でプレーをしてみた。1番、10番ティ付近、2番、8番グリーン回りの枝垂桜がまだ美しく映えていたから5月頃か、(因みに、これらの桜は桜田武、今里広記氏ら日本桜の会の寄贈)
 まさに樹々は鬱蒼として森林公園の趣だった。高い樹々の枝が張り出していて、ボールの飛行空間を妨げているホールがいくつもあった。1番ホールからしてそうだ。河野プロの嘆きもすぐ実感できたが、筆者には、スリーハンドレッドの現在の景観美は、これはこれで日本のゴルフコースに固有の森林公園的姿美ではないかと思われた。
 同クラブの「樹木一覧表」によると、主要な木々は、ツツジ科、ウコギ科、アカネ科、ツバキ科、バラ科が多いが、大木では、ヒノキ科、スギ科、ブナ科など、樹木が121種である。
 これらの樹木を、東京急行衛星都市建設部の造園デザイナーの設計によって配置、栽培されたものである。16番ホールには、沖縄で見る徳利椰子も2本、17番ティグラウンド背後と右ラフにも、かなり大きなものが見られた。正式には、ワシントンヤシ科の椰子だそうだ。
 スリーハンドレッドクラブの玄関の丸柱には、「有朋自遠方来不亦楽乎/不許冠職入山門」の格言が見える。仲間が遠くから集る、楽しいことだ。玄関を入る時は肩書き、地位はつけずに入ろう、という意味であろうか。

 
所在地     神奈川県茅ヶ崎市甘沼441
開場日     昭和37年9月23日
コース     18ホール、6875ヤード・パー72
設 計     東京急行衛星都市建設部
コースレート・ 未査定
コースレコード なし