第52回 袖ヶ浦カンツリークラブ・袖ヶ浦コース

 

 

袖ヶ浦CCの誕生と背景

袖ヶ浦カンツリークラブ・袖ヶ浦コース 18番ホール第2打地点から… 中央杉の左がサブ・グリーン、右が大競技で使うメイングリーン(キャディの向う)

袖ヶ浦カンツリークラブ・袖ヶ浦コース 18番ホール第2打地点から… 中央杉の左がサブ・グリーン、右が大競技で使うメイングリーン(キャディの向う)

 袖ヶ浦カンツリークラブの、生れた時の名前は、誉田カンツリー倶楽部である。現在では、コース所在地千葉市辺田町だが、昭和29年千葉市に吸収合併されるまでは、誉田村だった。
 京葉海浜工業地帯4000万坪を中心に、昭和30年代前半の千葉市周辺は、朝鮮動乱以来の経済発展が続いていた。しかし宮内三郎市長には、「千葉市には、経済の規模に見合ったホテルひとつ、ゴルフ場一つない」と不満だった。そして昭和29年鷹之台CCの建設を担当して開場したばかりの増田正二(旭建設社長)に相談した。
 「辺田町の市有地約10町歩を中心に、日本で一流のゴルフ場をつくれないか」
 旧誉田村は、5つの療養所を持つ静かな村だったが、現金収入が少ない。増田はすぐ動いた。
 昭和34年4月10日、(株)誉田カンツリー倶楽部(資本金250万円)を設立。社長安西正夫(昭和電工社長)、取締役増田正二。ところが6ヶ月後12月には、(株)袖ヶ浦カンツリー倶楽部と改称している。
 古くは袖ヶ浦あるいは袖しか浦。千葉県行徳から千葉市臨海工業地帯に至る海岸線の古い地名である。『古事記』に、荒波から日本武尊を救うため走水(東京湾)に身を投げた妃弟橘媛の袖が、数カ月後海岸に流れ着いたという哀話がある。以来内房の海辺を袖ヶ浦というようになったようだ。
 増田が、名称を誉田から袖ヶ浦に変えた真意は恐らく、歴史的な呼称を冠することで、これから造るゴルフ場を、小さな誉田村ではなく、より大きく格調高く国際的なコースにしようという狙いがあったと思われる。
 増田の計画は、千葉市にもう一つの“鷹之台CC”を造ろうだったようだ。だから設計者も同じ和泉一介。和泉には、鷹之台CCを途中退場した井上誠一に代って完成させた実績があった。
 袖ヶ浦コースには、2、8、16番に大きな吊場がある。その下には、谷地と水田が低く挟まれて、設計には悩ましい地形だったが、和泉は、それら自然の変化を「プレーヤーの冒険心を満たすものとする」と共に、「点在する森林や独立樹などとグリーン、バンカーの間にメロディ感を持たせた」と設計コンセプトを語っている。
 昭和35、36年といえば、ゴルフ場新設のブームの頃。会員募集も花ざかりで、集めた入会金でコースを造るのが常識だったが、袖ヶ浦CCの増田社長(キャプテン)は、終始自己資金で開発を進め、銀行から借り入れることはあっても、開場日まで入会金に手をつけることはなかった、と50年史が記録している。当時も今も、珍しい例である。

勝負は14番ホールから始まる

袖ヶ浦カンツリークラブ・袖ヶ浦コース 16番ホール・パー5 左の高い杉3本がいわゆる御神木。フェアウェイはそこから直角に左ドッグレッグしている。

袖ヶ浦カンツリークラブ・袖ヶ浦コース 16番ホール・パー5 左の高い杉3本がいわゆる御神木。フェアウェイはそこから直角に左ドッグレッグしている。

 筆者が、袖ヶ浦CCをプレーしたのは、昭和41年、袖ヶ浦CCで行われた日本オープンで所属プロの“早打ちマック”こと佐藤精一が優勝した頃からである。当時の18番ホールには、グリーン前の池はまだなかった。グリーンは、前が低く後へせり上った構造で、左右の曲りが大きい。1ストローク差で18番グリーンに上った佐藤精一プロは、約10メートルの大きくフックするパットを決め、3アンダー285(70、69、73、73)で、初優勝を飾った。
 現在の18番(569ヤード・パー5)は、向い風が多いこともあるが、グリーン前の池を避けて3オン狙いが主流。意表をつく(大ギャラリーが心中で期待する)2オン、イーグルの劇的シーンが少なくなっている。
 このコースでの勝敗は、インコース、それも、ツアープロが、「最も難しいパー4」という14番(464ヤード)からの5ホールで、バーディを幾つとるかが鍵となる。
 15番、16番ホールは、ともに第1打が左ドッグレッグ、大きなドローボールで左斜面のフェアウェイへころがすホールである。
 16番(541ヤード・パー5)、ティグラウンドから見て左手遠く、3本の高い杉、いわゆる御神木のあるホールだ。第1打のボールは、御神木の先で殆んど90度に左ドッグレッグし、落ちると左傾斜のフェアウェイへころがる。この曲り角まで250ヤード。第1打は大きく左へ打って、高く御神木を越えるか、曲り角までストレート250ヤードで止めるか、250ヤード以上打ってフェアウェイなりに左ドッグレッグさせて低地の底近くまで飛すか。飛距離と技術の見せ所だ。成功すれば2オンが狙える。
 昔は、勇者は御神木越えを狙ったから、ギャラリーも緊張したが、今は飛ぶゴルフの時代だ、ツアープロの50%は、3、4番アイアンで250ヤードのフックボールを打てる。御神木の威令もいささか後退、プロにはイーグル狙いのホールになったか?
 17番(231ヤード・パー3) ティとグリーンが殆んど同レベル、ストレートな広い展開である。左より右に雑木の疎林が近いが、むしろ危険は左のトラップとラフにあるようだが。
 18番(569ヤード・パー5) 第1打は左側バンカーに注意。但し右側ラフも広くはない。第2打は、池の左側フェアウェイへ、フラットライまでの飛びがほしい。グリーン上のピン狙いは敢えて「いつでも中央」を奨める。

 袖ヶ浦カンツリークラブは、日本ゴルフ協会会長に、安西浩、安西孝之(現)の二人の会長を出している、2名以上は、東京ゴルフ倶楽部と2倶楽部だけの名誉である。
 東京ゴルフ倶楽部に比肩する倶楽部史、クラブライフづくりが期待されているのであろう。

所在地  千葉県千葉市緑区辺田町567
コース規模  18ホール・7138ヤード・パー72
          コースレート 73.7
設 計 者 和泉 一介
開場月日  昭和35年11月1日
コースレコード  プロ  飯合 肇  63
           アマ  倉本昌弘  68