第38回 奈良国際ゴルフ倶楽部
奈良国際文化都市建設法の嫡出子
今でこそ西宮CCに、僅かにその座を譲っているが、奈良国際ゴルフ倶楽部は、ゴルフ会員権相場が過熱していた昭和58年、62年、平成2年の間、関東圏の小金井CCに対抗して、関西圏相場市場のトップを走り続けたゴルフ倶楽部である。
奈良国際GCの評価を、そこまで高価にさせたものは何だったろうか。
日本国中に“国際”という名のつくゴルフクラブは、枚挙に遑がないほど多い。A市にゴルフ場を造ろうと計画したら、先行してAゴルフクラブがあった、それならA国際で行こう、という習慣で国際CCが増え続けたのである。しかし奈良国際GCの場合は、遥かに由緒正しい。
奈良国際GCの本開場は、昭和32年11月3日だが、計画が動き出すのは、もっと早い。「国際文化都市奈良に、ゴルフ場の一つもないのはおかしい」という動きに押されて、昭和25年10月「奈良国際文化都市建設法」が国会で成立する。動いたのは、近鉄を中心としたミナミの財界だった。今でも奈良国際GCは奈良のゴルフ場でなく大阪人のゴルフ場と言った方が通りがいい。大阪北の財界のホームコースが、茨木、西宮、宝塚なのに対抗、大阪ミナミのホームコースは奈良国際GCである。大阪難波まで第2阪奈道路で30分、電車でも近鉄特急で30分である。
昭和30年12月奈良観光土地(株)を設立して用地確保に動き出す。辿り着いたのが奈良市宝来町あやめヶ池、現在地である。奈良市内から東大寺大仏殿、興福寺五重塔を一望するのは、現在のアウトコースの眺め。若草山をバックにした丘陵ムードのインコースは、17番「大仏の足跡」など、上田設計の秘術をつくした戦略的な展開で人気がある。
そして上りは、アウトとイン、コースとクラブハウスを隔てる第2阪奈道路が貫通している。コース内に高速道路が走るのは、凡百のゴルフ場経営なら、手を引くところだ。
「それをよろこんで受け入れたのは、大阪独特のオモシロがり文化が成させるワザだったか」(と、嘗て筆者は書いたことがある)
昭和31年9月、奈良ゴルフ場(株)設立。初代社長佐伯勇(近鉄社長) 同年11月奈良国際ゴルフ倶楽部創立。初代理事長中山正善(天理教真柱)
印象に残る“大仏の足跡”
このコースには、上田治設計の真骨頂を揮ったシーンがいくつか発見される。
上田治は、京大在学中から廣野GCで働き、C・Hアリソンと共に廣野GCを造った伊藤長蔵の影響を受けている。当然1グリーン主義の筈、それがこのコースでは堂々たる2グリーン主義である。日本の2グリーンは、メインの高麗グリーンがあって、ベントは冬用の補助グリーンだ。ところが奈良国際GCの上田は、二つのグリーンにそれぞれ個別のプレールートを与えている。どちらがメインでもサブでもない。18ホールで36ホールの攻め方があると、好評だという。
ブラインドホールを恐れないのも、上田設計が、井上誠一設計と違う点である。奈良国際GCの1番ホール(565ヤード・パー5)は、第1打からブラインドである。攻めてゆくグリーンもピンも見えない。上田は、ピンを攻める第2打から見えていれば、ブラインドホールではないという哲学である。ここの1番ホールも、第2打からはグリーンもピンも見えるし、その背景に、奈良盆地全体が俯瞰できるのだ。
多くの日本の設計家は、そこに2本の尾根があれば、往きを、高い尾根を縦に使ったフェアウェイとし、還りは、尾根と尾根の間の谷地、沢を埋めてフェアウェイとしてきた。こうすればブラインドホールは生れない。
しかし上田は、並んだ二つの尾根を横にぶち抜いてしまう。当然第1打は打上げのブラインドとなるが、そうすることで攻撃的な新しい戦略性が生れる、それが上田設計である。
印象に残るのは、17番ホール(429ヤード・パー4)である。16番をホールアウトし52段(興福寺に由来)の階段の歩経路を上ると、高いティグラウンドだ。見下すと、第1打は、右側に池(尼池)を抱きながら約180ヤードで右折する、そこから直線で230ヤードでグリーンである。その池側の岸辺に、大きなバンカーがふたつ、名付けて大仏の足跡である。右足跡の上を大きくオーバーすれば2オンも、左足跡の近くでは3オンである。
インコースに比べアウトコースは、よりフラットだが、グリーン回りに6個のバンカーを置いた5番のように、バンカーも多く、堅く、距離も長い。
所在地 奈良市宝来5丁目10-11
コース規模 18ホール・6917ヤード・パー72
設計者 上田 治
開場日 昭和32年11月3日
コースレート 73.3
コースレコード アマ 久保勇人 66
プロ 石井哲雄 67