第9回 龍ヶ崎カントリー倶楽部

 

 

井上誠一の随一の会心作

 2009年は、設計家井上誠一の生誕100年にあたる。

#9 第2打地点からグリーン、倶楽部ハウスを望む

#9 第2打地点からグリーン、倶楽部ハウスを望む

 井上誠一は、傑作の多い設計家である。生涯作品コースの中に、駄作、凡作の類は殆んど見当たらない。逆に42コースのうち最高の傑作コースはどこだろうか、と問われて即答できる人は、まずいない。それほど優れた設計コースが多い。霞ヶ関CC西コースか、大洗GC、日光CCか、あるいは大利根CCも武蔵CC豊岡、笹井コースもある。中部地区の人は、愛知CCを挙げるだろうか。

 筆者は、龍ヶ崎CCを井上作品のトップに挙げる。日光CCもいいが、やはり龍ヶ崎CCだと思う。井上自身も「挙げるとすれば会心作は龍ヶ崎CC」と言う筈だ、と筆者の独断である。

 根拠は、龍ヶ崎CCに対する井上自身の意気込みが凄いからだ。

 「土地の入手がスムーズだった。また用地の使用範囲がこちらに任されていた。(中略)好きなところを使っていい、要らないところは省いてよろしいと言われている方が、どんなにいい仕事ができるか分からない。そういう点で龍ヶ崎は非常なアドバンテージがあったわけです。(中略)ゴルフコースそのものの立地条件としては大体百点満点といってよく、私も非常に惚れ込んだ」(『龍ヶ崎CC30年史』より)

#12 パー3

#12 パー3

 龍ヶ崎市長荒井源太郎は、就任1年目の昭和313月、市の地域振興のためにはゴルフ場建設が必要と計画、昭和28年大洗GCで成功している茨城県知事友末洋治に相談する。友末知事は、「大洗を設計した井上さんに、候補地を視察して貰って決めたら」と助言した。その井上が、100点満点の惚れ込みようだから、良いコースができない筈がなかった。井上の周辺環境も変化しつつあった。

 昭和7年霞ヶ関CC西コース、11年那須GCと藤田欽哉(霞ヶ関CCキャプテン)の影響下にあった(大洗GCも含め)設計者井上誠一は、昭和30年の日光CC以後完全にソロ・デザイナーの道を歩きつつあった。

 さらに井上は、龍ヶ崎CCの仕事中、大久保昌という20代の若い協力者と出会う幸運に恵まれる。昭和20年代の大部分を、井上誠一は米軍ジョンソン基地に接収されていた霞ヶ関CCの職員として、大久保は、千葉園芸専門(現千葉大)を卒業後、米軍朝霞基地ドレークGCのグリーンキーパーとして働いていた関係で、交流があった。そして龍ヶ崎CC造成の仕事で、2人の間に師弟関係が生まれる。

 (因みに平成10年前後から大久保が、大洗GC、武蔵CC笹井、戸塚CCなど井上設計の改造を多く手掛けているのは、こうした関係で井上の手法の良き理解者だったからだ)

環境とスタッフが変わって、井上は龍ヶ崎CC新設計計画を好機に、2つの大きな提案を行った。

 第1は、戦後初の2面グリーンの提案である。井上はすでに、霞ヶ関CC、東京GCで、1面グリーンから2面グリーンへの改造を手がけ、ゴルフ界が2面グリーン時代に移行するきっかけをつくっていた。しかしオリジナル設計としての2面グリーンは、龍ヶ崎CCが戦後第1号であった。(因みに、戦前には、昭和12年開場の小金井CC2面グリーン設計である)

 第2に、龍ヶ崎CCにおける井上の2面グリーン設計は、メイングリーンがベント芝でサブグリーンが高麗芝になっていたが、これも龍ヶ崎が最初である。それまでの常識では、メインが高麗芝で、ベントのサブグリーンは面積も小さく、冬季用のテンポラリーグリーンに近いものが多かった。メインをベントにしたのは、国際的なチャンピオンシップコースをつくるという井上の根本の姿勢が働いていたようだ。

戦後初のオリジナル・2グリーン。されど・・・

「レイアウトは近代的な戦略主義に則り、パープレーはなかなか困難であるが、ワンオーバーパーは比較的容易に取れる、上手にも下手にも興味津々たるものに致します」(「龍ヶ崎CC設立計画書」の井上の文章)

龍ヶ崎CCは難しい、上級アスリートのコースだという言葉がある反面、いいコースだが、2面グリーンは正統派的ではない、残念という意見もある。

しかし井上の設計を傍らで見てきた大久保には、興味深い意見がある。

「井上の2面グリーンには、それぞれのグリーンにそれぞれの攻めルートがある。第1打をフェアウエイの中央に打っておけばいい、というものではない」というのだ。その代表例として11番ホール(435ヤード・パー4)を挙げる。11番では、左ベントグリーンを狙うときの第1打は、右のフェアウエイバンカーを狙い、右高麗グリーンを狙う時は、左のフェアウエイバンカー方向へ打て、各グリーンの花道はその方向に開いている、というのが大久保の意見だ。それぞれのグリーンが、お互いに違った攻略ルートを持っているのだと解説する。俗にいう目玉焼型の双子のツーグリーンではないというわけだ。

15番(386ヤード・パー4)は、第2打落下点の右区域に、フェアウエイに深く遮るクロスバンカーがあるが、ここでもクロスバンカー近くに置かれたボールからみて、その方向に左グリーンの花道が開いている。同じ理論である。

 後に来日プレーしたサム・スニードが、米国の雑誌で詳しく紹介、それを読んだ英国のトップアマ(世界アマ5位)のロニー・シェードは、プレーした後「英国でも有数なゴルフ場に入る」と称賛したというエピソードが残る。英国には、2グリーンのコースはない。そこのトップアマに違和感がなかったということは、龍ヶ崎CCの2面グリーンが、それぞれにはっきりした攻略性をもったグリーン、言いかえれば1グリーン主義に通底していたということであろう。

龍ヶ崎のアーメンコーナー

#10ティーから松を超えて舟底型フェアウェイを見る

#10ティーから松を超えて舟底型フェアウェイを見る

 “龍ヶ崎のアーメンコーナー”という言葉がある。プレーした人なら誰でも知っている。アーメンコーナーとは、マスターズのオーガスタ・ナショナルコースの難所111213番ホールに倣ったもので、龍ヶ崎CCでは、9、1011番ホールを指す。9番(432ヤード・パー4)では、第1打を230ヤード飛ばすと、すぐ前は約5~7ヤードの深い地溝である。谷というには浅く溝と片づけるには深すぎる。地表の褶曲で生まれた皺である。その前で止めて長い第2打でオンを狙うか、地溝の底まで飛ばし、短い第2打を高々と打ち上げるか、ゲームプランを試される場面だ。

この地溝は、1番ホールから9番第2打点の先そして10番ティ前を横切って11番グリーン10ヤード前をクロス、12番ティ前~グリーン左をめぐる池と姿を変え、さらに13番ホール第1打で越える大きな凹みとなって地表に姿を消す。さらにこの地溝は、10番ティ前でT字型に右へ分岐してそのまま10番フェアウエイを形造っている。

 10番(419ヤード・パー4)は、アーメンコーナーのキイホールである。地溝を利用したフェアウエイは、両側をあまり高くないが長く連なっている砂丘列にはさまれた舟底型で延びている。北スコットランドでよく見かける景色だ。舟底フェアウエイは高いティからみてやや斜め左方向に伸びている。第1打は数本の松越えに、フェアウエイへ左約60度の線で打ち下すことになる。飛ばない人は松の右へ、そして2オン絶望、3オンも危ない。飛ぶ人は、松の上か左だが、方向を誤るとボールを砂丘列の上に打ち上げて、こちらも3オンになる恐れが出る。

 井上自身は、アーメンコーナーについて「1~8番までは普通に攻めていけるが、9、1011番の3ホールはプロのリズムをくずすように造った」という趣旨のことを述べたことがある―と30年史が記録している。井上誠一は恐らく、この一本の地溝を戦略的に取り込むことで、龍ヶ崎CCを第1級の名コースにしようと考え、そして成功しているようだ。

 因みに現10番ホールは、開場前は1番ホールとして設計されていたらしい。スタートホールとしては難しすぎるということで、アウト・インが現在のように入れ換えられたと「龍ヶ崎CC10年史」に出ている。

 また『龍ヶ崎CC40年史』の中で、所属プロの宮本忠男が、現在のホールルーティングでいって“1~5番はさほど難しくないホールが続く、6~14番は難易度が高いホールが揃う、上がりの1518番はまた緩やかだ。これは最初の設計段階では、“ワンウエイを採用しようとした名残りか”と疑問を投げている。一つの洞察だと思うが、 井上と共にあった大久保昌に、ワンウエイは、ゴルフ場が18ホールと決まる前のスコットランドの風習だ。18ホールの定型ができた後ワンウエイの設計思想はない、と否定されて終っている。名作をどうみるか、100人いれば100の見方、感じ方があっていいという意見もある。「名作とは解釈可能性の束である」(トーマス・マンの訳者、高橋義孝)という言葉もある。