第50回 青梅ゴルフ倶楽部

 

 

「ホームコースにしたいクラブ」

青梅ゴルフ倶楽部 東コース1番ホールとクラブハウス

青梅ゴルフ倶楽部 東コース1番ホールとクラブハウス

 10年前になるだろうか。「もし私がホームコースを選ぶとすれば、青梅ゴルフ倶楽部がいい」と言った人がいた。その人は、ゴルフ会員権取引業会社の社長である。
 推奨の理由は、青梅は、随一、クラブ民主主義が徹底したクラブだから、だという。
 今回は、その倶楽部、そのコースのことを書く。
 
 昭和30年前後――。
 国鉄青梅線青梅駅の二つ手前河辺駅の近くに、満州からの引き揚げ者の収容所があった。後に青梅Gの取締役となる広瀬五郎もそこに住む一人だった。ある日広瀬は、養兎場を設けるための土地探しに出て、青梅市霞丘陵(ゴルフ場現在地の一帯)の広大な山林が、殆んど不毛で安価で手に入ることに着目、ゴルフ場計画を思い立った。直に在満時代の知己で大阪に住む歯科医殿岡栄と相談する。計画は大阪で進められた。

 “関東の廣野GC”をめざしたか

 昭和32年6月、青梅ゴルフ倶楽部発起人会発足。青梅市議会が「設置に協力」を決定。同年7月(株)青梅ゴルフ倶楽部設立。社長殿岡栄、代表取締役・理事長に参議院議員現職の平島敏夫。平島は、広瀬、殿岡の満州人脈で、元満州鉄道副総裁。大東文化大学理事長の傍ら青梅GCの後飯能GC創建に動いている。
 コース設計の清木一男も満州人脈である。元満州電元社専務、飯野海運ロンドン支店長時代にゴルフに習熟、帰国後戦前の鷹之台ゴルフ倶楽部(現鷹之台CCの場所)を設計している。発起人92名のうち佐藤享、松平勇雄は相模CCメンバーで、やはり満州人脈、うち佐藤は、青梅GCについで府中CC、白河高原CCを造り上げている。一流の人脈を集めたのである。
 満州人脈と平島敏夫人脈の効果は大、第1次300名募集には600名が入会、1億円近くを集めたと、50年史が書いている。
 以上からも、発足時から目標は一流、名門だったと判る。さらに名門倶楽部から優秀な現役スタッフをスカウトしている。設計の清木を通じて鷹之台CCからプロの花島洋、グリーンキーパーの丸山清治、小金井CCからは川奈育ちの女性キャディマスター広瀬弥栄子(旧姓石井)。最も話題となったのは、関西第一の名門廣野GCから名物支配人片田真造、料理長出口四郎をスカウトしたことだった。東京のゴルフ界では、
 「青梅は、関東の廣野GCを作るつもりか」
 と話題を呼んだ。計画が関西在宅の殿岡中心に進んだ結果だろうか。施工も、浅沼組、古市建設と関西の業者が受けている。

佐藤敏雄社長、経営危機を救う

青梅ゴルフ倶楽部 東コース2番ホール・パー5

青梅ゴルフ倶楽部 東コース2番ホール・パー5

 昭和33年11月、第1コース アウト9ホールを仮開場。昭和34年5月第1コース イン9ホール開場、第1コースは18ホールとなる。
 昭和34年4月第2コース着工。8月第2コース9ホール開場。11月残り9ホールに着手するが、資金難のため工事進行20%で中止。
 経営陣は、5万円で倶楽部債を発行するが、予定の11%しか集らず、この時点で、さらにずさんな建設計画、不正経理が露見し、経営危機に陥る。
 昭和35年1月、殿岡、広瀬ら4名の旧経営陣の役員が辞意表明。関東ゴルフ界を騒がせた“青梅事件”が発生した。
 昭和35年6月の臨時株主(会員)総会で代表取締役に遠山浩三、佐藤敏雄が選出されて、事態は終熄に向かう。
 特に地元東青梅駅前に、本社、工場を構える日本ケミカルコンデンサー(株)社長佐藤敏雄の苦労、貢献は大きかった。
 日本ケミコンは、佐藤が、一電器商から自力で築き上げた東証一部上場の電流絶縁体メーカーである。昭和36年クラブハウスの競売申立を受けたとき佐藤社長は、私財を提供して難を逃れている。在任中の佐藤は、自社の仕事は午前中だけ、午後からは車で5分のコースへ。ラフや法面で草取り、石ひろいで従業員かと見間違える仕事っぷりだった。因みに佐藤社長は、全人教育で有名な玉川大学創始者小原国芳の後継者としても知られており、現社長佐藤敏明は、敏雄社長の子息、玉川大学卒業である。
 昭和42年から52年まで経営過渡期に理事長の任にあった矢可部軍司の貢献も大きい。旧海軍少将、最後の連合艦隊軍医長から復員、50歳を超えて下北沢で医院開業、日曜休診を利用したサンデーゴルフで、名門小金井CCのハンディ8、シニアチャンピオンとなり青梅Gへ。理事長になっても、7本バッグをひょいと肩にセルフプレー姿が、会員たちの意識改革を促した。

ゴルフを難解にせず、楽しくするコース

 青梅ゴルフ倶楽部は、平成20年11月16日に開場50周年を迎えた。昭和33年11月16日、第1コース アウト9ホール(現東コース)を仮開場して以来、満50周年である。
 現在は、東コース3389ヤード、パー36 西コース3400ヤード、パー36 中コース3254ヤード、パー36。原設計者清木一男は、27ホールを設計していたが、そのうち北コースは、第1コースのインコースと混合しながらの大改造がつづけられ、現西、中コースとなり、旧設計のルーティング、詳細設計とも、全く面目を改めたコースとなっている。
 現東コース(旧第1コース・アウト)も、いくつか大改造があった。日本一ホールインワンの出るホールといわれた2番、パー3は消滅して、8番の視野広大な打下しパー3が代って登場。3番、5番パー5のブラインドホールを高低差修正などが行われた。東9番338ヤードの第1打が、打下しから、フラットな左ドッグレッグにするなど、プレーしやすさと同時に戦略的な修正が図られるなど改造が進められた。因みにこの改造の重要部分には、佐藤敏雄社長と親しかった藤田欣哉氏の意見がはたらいている。藤田氏は、昭和4年霞ヶ関CC東コース造成のとき、設計の中心となった人。昭和30年代は、青梅の在に隠棲中だった。
 青梅GCは、チャンピオンシップを争うコースではない。しかし打下し第1打の多い豪快さ、谷越えの緊張感、山コースにしてはブラインドのない開放感など、自然と向き合うゴルフの楽しさがある。2ベントグリーンの27ホール。ゴルフを難解にするコースではなく、ゴルフをさらに楽しくするコースである。

倶楽部民主主義とは…

 青梅ゴルフ倶楽部は、システムは1株主1会員の原則に立つ株主会員制だが、運営は戦前からの名門倶楽部がもつ社団法人制と同じだと、50年史で宣言している。創業時の幾多の困難を乗り越えて、現在は「倶楽部民主主義の最も徹底した倶楽部」という評価がある。「ホームコースを選ぶなら青梅G…」という、冒頭の人の想いも、そこにあるようだ。

所在地  東京都青梅市根ヶ布1‐490
コース規模  東・9H・3389Y・P36。西・9H・3400Y・P36。中・9H・3254Y・P36。
          コースレート 東・西 71.2
設 計  清木 一男
開場月日  昭和33年11月16日
コースレコード  東・西  嶋田憲人  68。 中・東  内山健司  64。 
           西・中  嶋田憲人  65。