第29回 札幌ゴルフ倶楽部 輪厚コース

 

 

歴史は遠く、銭函との合作

札幌GC 輪厚コース:クラブハウスから1番ティへ。

札幌GC 輪厚コース:クラブハウスから1番ティへ。

 札幌ゴルフ倶楽部の発祥は、少しばかり複雑である。
 昭和33年6月12日とあるのは、札幌ゴルフ倶楽部の輪厚コースの開場日である。それより遡ること26年、戦前の昭和7年8月、札幌郡豊平町大字月寒村字二里塚の17万坪に、18ホールの建設を発表したのが“札幌ゴルフ倶楽部”の始まりである。コースは、当時のゴルフ界の権威大谷光明設計による18ホール・6216ヤード・パー72。翌8年アウトコース、9年にインコースが完成、18ホールが揃っている。北海道における18ホールコース第1号である。
 北海道のゴルフコース第1号は、函館(昭和2年)か小樽(昭和3年)か、長年もめていたが、いずれも9ホールである。その後イタンキ(室蘭・昭和5年)旭川、洞爺湖(昭和6年)と続くが、これらも9ホールである。道都札幌が後れをとっているのは不思議だが、札幌には、東京から赴任した官史、会社員が多い。彼らは、東京の駒沢、程ヶ谷、藤沢などの18ホールコースに馴れていて、北海道の競馬場や海岸の9ホールを本物のゴルフコースと認めていなかったのではないか、という説もある。それを裏付けるように、札幌ゴルフ倶楽部月寒コースの人気は絶大で、完成を待ち切れないゴルファーたちが、インコース予定の牧草地に、自前で簡単な仮コースを作ってプレーした、というエピソードが残っている。
 (小樽CC銭函コースは、電車で札幌から30分、小樽との中間点であった。月寒コース会員は、月寒のアウトが完成するまでの5年間を、小樽CC会員と合同、銭函カントリー倶楽部としてプレーしたという事実がある。この間、小樽CCも看板を一時期取り下げ銭函CCとしたのだ。この5年を加えれば、札幌GCの歴史は、さらに古くなる。因みに、昭和15年会員名簿には、戦後復興の中心となる道家斉次、越山友之、村上義一の名前もある。)
 人気絶大の札幌GC月寒コースだったが、戦争には勝てず、昭和17年11月閉鎖され、陸軍の演習場、かぼちゃ、大根畑に変身して敗戦、再起できなかった。

真駒内から輪厚へ

 戦後、札幌市内真駒内地区に広大な駐留軍基地がつくられ、昭和22年その中心に、米軍のための18ホールのゴルフ場が誕生。27年朝鮮動乱終熄後、日本人のプレーもOKとなり、昭和33年にはその管理のために会員制札幌カントリー倶楽部が組織された。(会員数800名、理事長道家斉次)。
 だが僅か一年で北海道庁に接収され、真駒内ゴルフ場は、道営ゴルフ場、ついで真駒内団地の公園となった。行き場を失った札幌カントリー倶楽部は、一切の歴史を継承する約束で、折から札幌の表玄関千歳空港と札幌駅を結ぶ弾丸道路(国道36号線)沿いのゆるやかな丘陵地広島村輪厚にホームコースを築きつつあった札幌ゴルフ倶楽部に合流した。
 戦前、戦後を通してのこうした倶楽部史の足跡を、『輪厚30周年記念号』は、「銭函がゆりかごなら、月寒は幼年期、真駒内が少年の目覚めを覚え、輪厚でキリリとした青年に成長したといえまいか」と書く。現時点でいえば輪厚コースの年齢は52年だが、札幌ゴルフ倶楽部は78年といいたいようである。
 因みに、輪厚(ワッツ)とは、アイヌ語のウッチナイから転訛したもので、“肋骨のような川”の意。現在のコース内に、それを思わせる川の姿はないが、輪厚川川上の脇、脇川とは泥川の意もある。

輪厚コースと井上誠一の設計哲学

札幌GC 輪厚コース:17番ホール、第2打からグリーン方向へ。

札幌GC 輪厚コース:17番ホール、第2打からグリーン方向へ。

 昭和33年8月10日、輪厚コース(初めは札幌コース、37年2月輪厚コースに改称)18ホール・7100ヤード・パー72が開場。
 設計の井上誠一は、「地形も仲々変化に富んだゴルフコース適地であり、」「立派な西洋芝のグリーン、フェアウエーを育成管理して行く前提のもとに近代的チャンピオンシップコースを作るべきであるとの基本方針でレイアウトの研究を進めた」と力をこめている。
 具体的には、井上は「できるだけ自然の地形、風物を利用して戦略的様式のものを作るべく意図した」としながらも、極端に難しいコースは避け、比較的楽に1オーバー・パーをセーブできる程度に計ってレイアウトしたとしている。
 もう一つ井上が、凡ゆる種類のショットをマスターできるような変化を多くつくった。たとえばバンカーは浅く、深く、砂渡りの長いもの、短いのもと、このコースで学べば、他のどこのコースに行っても、球のこなし方で恐れることはない、と嬉しい助言もしている。上級者を志す人は、十度は試みて輪厚を卆業したいものである。
 井上が気にしているのは、1番、10番がそうであるように、第1打打下し、第2打でグリーンへ打ち上げのホールが多い点だ。地形上の制約だが、そこでも打上げのボール・ライ、スタンスは各ショット毎に違うように設計されているというから油断しないことだ。
 セント・アンドリュウス・オールドコースでは、17番ホールが終わるまでは何も決らないといわれているが、輪厚コースでも、17番ホールでバーディかボギーか、勝敗はこのホールで決る場合が多い。問題は、第2打(あるいは第3打)の左曲り角にある背丈の高い木々の集まりである。どう越えるか。設計の井上は、ただ一言、「17番の曲り角の大木の群れは伐らずに残すよう」に指示しただけだったとか。大洗GC、日光CCでそうだったように、設計者は、成長し変化する樹々のつくる戦略的微妙を前に、プレーヤーがそれぞれにどういう攻めの筋書きを書いてみせるか、それにこだわったのである。輪厚でプレーしたら、お土産話しの中に、17番ホールを忘れてはいけない。

輪厚コースE・T・C
昭和48年4月20日 輪厚コースの新しいクラブハウ落成
昭和48年7月15日 STVカップ札幌オープンが発展的解消、第1回全日空札幌オープンゴルフトーナメント開催(15・16回は、輪厚コースのグリーン改造のため由仁コースで開催)。
昭和50年4月25日 由仁コース18ホール正式オープン。

(輪厚コース)
所在地 北海道北広島市輪厚77
開場 昭和33年8月12日
コース規模 18ホール・7063ヤード・パー72
設計 井上 誠一
コースレート 73.7
コースレコード   アマ 東 聡 68 、プロ 深堀 圭一郎 62

(由仁コース)
北海道夕張郡由仁町光栄583
18ホール・7031ヤード・パー72
コースレート73.1
コースレコード  プロ 尾崎 直道 63