第46回 狭山ゴルフクラブ

 

 

武蔵野を映した27ホール

狭山ゴルフクラブ クラブハウス 東1番スタート

狭山ゴルフクラブ クラブハウス 東1番スタート

 国木田独歩の名作『武蔵野』の冒頭は、「武蔵野の俤は今わずかに入間郡に残れり」とある。入間郡は今入間市、狭山ゴルフクラブはその中に在る。
 西武電鉄の入間市駅から5分、街並みの中を抜けると国道16号である。立川方面へ車で5分も走ると、左側は武蔵CC豊岡コース、右は武蔵工業用地を抜けると狭山GCである。
 この一帯は、太平洋戦争中は、陸軍航空士官学校の付属飛行場だった。
 黄色い複葉機の離着陸訓練や高い鉄塔からの落下傘降下訓練をしていた、と元武蔵CC支配人の八木一郎さんが書いている。
 飛行場の中を八王子街道という一本の道路が走っていたが、平行してもう一本緊急離着陸道路が造られた。それが現在の国道16号である。生まれは軍事用の非常用道路だった。
 昭和20年戦争が終わる。昭和27年占領も終わる。昭和30年頃になって、狭山台地と入間川を挟んだ入間台地は、都心から1時間30分(現在は50分)の平坦な山野ということでゴルフ場計画が相次いだ。
 国道16号の左には、昭和33年4月25日㈱武蔵カントリー倶楽部設立。豊岡コースの工事が始まる。右側には少し後れて同じ年の10月28日武蔵野開発㈱生れている。狭山ゴルフクラブの母体会社である。会長石河幹武(日本航空副社長)、社長小寺酉二(日本ゴルフ協会常務理事)、二人は、先に誕生している相模原ゴルフ・クラブの有力発起人だから、資本は別としても、二つのクラブは、志でつながっていたのだろうか。コース設計小寺酉二も両コース共通で、後に揃って設計をめぐって共通の悩み、論争を抱えることになる。

小寺酉二設計をめぐって

狭山ゴルフクラブ 池越えが美しくも難しい 東3番

狭山ゴルフクラブ 池越えが美しくも難しい 東3番

 用地となった入間市金子周辺は、狭山茶で知られた土地柄、ゆるやかで平坦な茶畑がつづく。その延長40万坪を取得した造成工事は、平坦な地形に助けられて、順調に進んだ。昭和34年10月25日インコース9ホール、11月15日アウトコース9ホールが仮開場、36年4月18日18ホール・7060ヤード・パー72を本開場する。南コース9ホール・3234ヤード・パー36も2年後れて昭和38年12月19日完成、27ホールが整った。
 登場した狭山GCのコースは、18ホールで7060ヤードという距離の長さ、しかも全くの平坦コースで、距離を稼ぐ打ち下ろしショットがない。実質の飛距離で7060ヤードを飛ばすことになるので、「長い、難しい」、大洗GCよりも難しいと評判になる。その分上級者の注目を集めることになった。そして、日本ゴルフ史に残る“大論争”が起こる。
 コース設計の小寺酉二は、慶応大学教員を約束されて米国プリンストン大学留学中にゴルフを修得、折から組織化に努めていた日本ゴルフ協会に招請され、常務理事として戦後の日本ゴルフ界の動きの中心にいた人物である。コース設計も、軽井沢GC、相模原GC東コース、狭山GCを代表作に数多いが、代表3コースは、2グリーン時代を迎えていた昭和30~50年代の日本ゴルフ界で、断固1グリーン設計を通して論争の的になっていた。
 北海道を除き、日本の気候では、冬場になると、青い高麗グリーンを保つことは無理。そこで高麗とベントの2グリーン設計が生まれ、昭和30~50年代は、流行の中心となった。その中で小寺は、1グリーン原理を守り通した数少ない設計者の一人だった。ゴルフは、ティショットからパッティングそしてホールカップへ、次第に的をしぼってゆくのがプレーの原則、グリーン前で目標域が大きく二つに拡大する2グリーン理論を許さなかった。
 最後に小寺が妥協した1グリーンは、グリーンの前半は高麗芝、後半は冬期も強いベント芝と貼り分けたコンビネーショングリーンだった。その結果グリーンは2000~3500平方メートルと巨大化した。大きすぎる、という批判に小寺は、「前半分の高麗部分は、グリーンと思わずエプロンと思えばいい」と笑い飛ばしている。(今は殆んど見ないが、エプロンとは、グリーンの入口に、グリーンと同質の構造、芝を使って造ったスペースのこと、花道とは違う。)
 結局、小寺は、相模原GCと狭山GCではコンビネーションの1グリーンを譲らず、大洗GCでは井上誠一も採用していた。

1グリーンから2グリーンへ、そしてまた・・・

 しかしまだ2グリーン主流の時代が続く。
 昭和51年、小寺が世を去ると、待っていましたとばかり、昭和53年から狭山GC27ホールは、竹村秀夫設計で高麗とベントの2グリーン化改造が始められた。グリーンを二つに独立させただけではなく、東3番池越えパー3のように、ティグラウンドも移し、ターゲットラインがすっかり変ってしまう例も現われた。コース全長も7090ヤードから6919ヤードに短くなった。(同じ小寺設計の相模原GC東コースは、昭和38年にすでに2グリーンに分割されていた。)
 狭山GCのグリーンは、竹村改造で高麗とベントの2グリーン化された後さらに、川田太三設計によって、ベント2グリーン改造が行われている。
 ところが今、平成年代に入って、日本ゴルフ界は、1グリーン化一色に変化しつつあるのだが。時代の皮肉だろうか。
 クラブハウスも、平成17年、「騒がしいもの、余分なもの、甘いものを極力避けて、簡素なもの、豪放なものの美しさ、これが武蔵野だと思います」という思いで、田島学がデザインした赤い三角屋根の簡素な建物から、エントランス棟とレストラン棟を大きな渡り廊下でつないだつくりの高級感をアップした構成の近代的な建物に変った。これも時代の流れか。但しクラブハウスの外観が、東、南、西3コースからそれぞれ違った表情で見えるのは成功である。
 このように時代とともにコースも、クラブハウスも表情を変える。しかし
 「春は滴るばかりの新緑萌え出ずるその変化」「楢の葉だから黄葉する。黄葉するから落葉する」と国木田独歩が謳い上げた武蔵野の風情だけは失わないでいてほしいものだ。

所在地     埼玉県入間市大字下谷ヶ貫492
コース規模  27ホール・10365ヤード・パー108
コース設計   小寺 酉二。  改造設計  竹村 秀夫
                            川田 太三
コースレート  72.6 (南・西。 西・東)
開場日     昭和34年10月28日