第70回 河口湖カントリークラブ

 

 

アメリカ遠征前にここで特訓を…
 

河口湖カントリークラブ 赤松の林立とよく似合うクラブハウスだった。

河口湖カントリークラブ 赤松の林立とよく似合うクラブハウスだった。

 河口湖カントリークラブは、昭和末期から平成初めにかけての10年間、筆者がホームコースとしていたゴルフクラブである。なぜ入会しようと思ったか。いろいろある。経営母体が百貨店老舗の『松屋』で(現在は東京建物が経営)、富士周辺の新コースの中では際立って高級感が感じられたこともある。しかし1番大きかったのは、昭和52年6月2日の本開場の時、同クラブ顧問陳清波プロが、
 「これからは、アメリカに遠征するプロは、このコースで特訓して出かければ、好成績が期待できます。」
と語った言葉だった。
 働き盛りのゴルフ記者だった筆者には、聞き逃せない発言だった。それが入会の本音の動機だ。
 当時はまだ東・西2コースの18ホールだった。昭和52年、2グリーン制が中心の時代に生れたコースである。グリーンは小さい。
 「グリーンが難しい」と、メンバーたちは合言葉のように言い合った。
 「変化が多く読みにくい。」「芝目が強く変化が読みにくい。」とこぼす人、逆にそれを楽しむ人、そんな会員たちだったが、ほんとの難しさはグリーンが小さいことに原因があった。
 グリーンが小さければ、変化も強く見える。距離がより遠く見える、だから難しい。また、ターゲットもより厳しくしぼられる。
 それに輪をかけるのがバンカーの数だ。27ホールで195個、平均的コースの2倍だ。遅く開場の南コースは1グリーンだからバンカーも少ない。東・西18ホールだけなら、普通のコースの3倍かもしれない数のバンカーが、フェアウェイからグリーンまわりまで、群れ踊るのだ。
 たとえば東4番は、313ヤードの短いホールだ。左グリーンがやや遠いが、それでも第2打はピッチングである。軽く2オンと行きたいが、グリーンまわりのバンカーが油断ならない。グリーン正面にバンカーがいっぱいにがんばっている。グリーンは押されて横長である。正面から狙ってボールがグリーン上で弾んだとしても、グリーン幅は狭く、ボールは弾んで後のバンカー入である。
 成功の道はただ1つ、第1打を右へ落し、横長のグリーンを横いっぱいに使ってピンを狙うことだ。バンカーが敵役のホールである。
 設計者は“バンカーの魔術師”といわれた米国人ロバート・ボン・ヘギー、それに豪州のトッププロ・ブルース・デブリンが協力している。
 
河口湖CCとポン・ヘギーの幸せな邂逅
 
 『田野辺薫の名コースめぐり』第69回「西那須野カントリー倶楽部」では、ボン・ヘギーを“光の魔術師”として紹介した。現実を今ここにある景色以上に美しく見せる印象派画家のような、コース設計界の印象派だと解説した。そして此稿では、バンカーの魔術師である。
 R・ボン・ヘギーは、1930年テキサス州生れ。戦後ベイ・ヒル、ドラールCCなどを設計して有名なディック・ウィルソンの許で働き、設計家を志す。ウィルソンは、ベイヒルの左右対照(シンメトリック)なボトルネックデザインで知られているように、バンカーとグリーンを絡ませた審美性と戦略性のバランスの妙で有名。ボン・ヘギーがバンカーの魔術師といわれるのも、師の影響であろう。
 筆者は、平成4年ホノルルで行われたゴルフ・コンファレンスで、ボン・ヘギーのスピーチを聞いたことがある。席上彼は、自身の手で進行中の、廃棄物処理場跡を利用したゴルフ場設計を狙上に、ゴルフコースと環境、自然との共生を熱く語っていた。
 彼のデザインは、バンカーが多く、目立つなど、姿が美しいので造型的に見える。確かに彼の感性が仂いているという意味では、“人の手が加っている”のだが、それは決して人工的ではない。彼の感性が、そこに在る自然と異質な対立をするのではなく、自然の美しさを強調するために仂いているからだ。
 その意味で、大きな赤松の森林と中央高く浮かぶ富士というこの上ない大自然を生かしたかった河口湖CCとしては、ボン・ヘギーは最高の選択だったといえよう。

バンカーの魔術師が造った難ホール
 

河口湖カントリークラブ 東9番ホール、左グリーンをテイから一直線に見る。

河口湖カントリークラブ 東9番ホール、左グリーンをテイから一直線に見る。

 そうは言っても、ボン・ヘギーは単なるナチュラリストではない。ということは、ゴルフコースの戦略性に拘りをもった、やはりコースアーキテクトである。先に挙げた東4番ホールもその1つだ。
 しかし東・西18ホールのうち最もボン・ヘギーの真骨頂をうかがわせるのは、東9番(348ヤード・パー4)である。
 フェアウェイが約300ヤード伸びた先にやや持ち上げられた左グリーンがある。右グリーンは、テイから約200ヤード先を右へ直角に曲った、その上8メートルの丘の上だ。つまりフェアウェイは1本だが、左グリーン狙いでは真っ直ぐの第1打、右グリーン狙いはフェアウェイ右端狙った第1打つまり2本の第1打の道がある。
 両グリーンの周辺はともに、深く小さなグリーンで囲まれている。しかし左グリーンは花道が開けていて第2打は狙いやすい。対して右グリーンは、右ドッグレッグした8メートル高い丘の上だ。ピンが奥に立った日は、グリーン面は見えず、フラッグが見えるだけである。両グリーンの第2打は、方向も視野も全く違う。
 つまり1つのホールに二つのホールがあるのだ。2グリーン制反対のボン・ヘギーは、左と右のグリーンでは、全く違う二つのホールを攻めるように打てとデザインしているのだ。それが見えてくると、河口湖CCの戦略的おもしろさは倍加する。
 筆者が、ボン・ヘギーの美学、設計哲学を最も象徴しているホールとして推薦したいのは、東6番ホール(336ヤード・パー4)である。ヘッドプロの陳清波さんに、テイショットで1回もドライバーを使わせなかったというホールだ。フェアウェイが左と右2つのグリーンへ向ってY字型に岐れる双頭グリーンのホールである。第1打は、150ヤード地点に横切るドライクリークを飛び越せれば十分、そこでY字に岐れたフェアウェイは、左と右それぞれのグリーンに向って別々のルートを攻めることになる。つまりグリーンが違えば、第1打から方向、飛距離つまり使用クラブを考えて選び直さなければいけない設計である。
 これら設計者の深謀遠慮を見抜けなければ河口湖CCを十二分に堪能したことにはならない。

 (思い出語り)、もう知っている人も少いだろうが、開場直後の河口湖CCのグリーンは、450平方メートル~500平方メートルと小さい上に、グリーン面の縁(ふち)には、フリルという馬のタテ髪のようなふち飾りの芝がぐるりと生えていたものです。女性のドレスの襟飾りのようなものです。今ではフリルをつけたグリーンは日本では見かけません。従ってグリーンオンは、エプロンだけでなく、前後左右どこからでもトントンと自由です。しかし昔は違うコースもあった。
 昭和37年の千葉CC・梅郷コースで行われた日本オープン最終日、陳清波が、18番グリーンのフリルの芝にボールを打ち込み、そこからの脱出、アプローチに失敗。杉原輝雄に287ストローク対289ストロークで優勝をさらわれてしまったことがあった。
 河口湖CCの原初のグリーンには、その芝のフリルがつけられていて、グリーンオンは、小さなグリーンへの難しいダイレクトオンか、花道からの行儀のいいオン・グリーンしかなかったのです。

 フリルのついた小さいグリーンに手古摺った直後、練習場で顧問プロ陳清波さんとバッタリ…
 「グリーンは小さく難しいですね。半年経ってもまだまだですよ」
 陳プロ、大きい目でまじまじと小生を見つめた後、たったひと言、短く…
 「がんばって下さい」

所在地      山梨県南都留郡富士河口湖町船津6236
コース規模    東・9ホール・3294ヤード、パー36
           西・9ホール・3280ヤード、パー36
           南・9ホール・3282ヤード、パー36
設計者      ロバート・ボン・ヘギー  ブルース・デブリン共作
コースレート   東・南72  西・東71.4  南・西71.9
開場年月日   昭和52年6月2日