第1回 廣野ゴルフ倶楽部

9番フェアウェイからクラブハウス

  廣野ゴルフ倶楽部が、世界レベルでいかに高く評価されていたか、それを証明する1つの資料が、最近明らかになったと同倶楽部会報『HIRONO』2008年、新年号が紹介している。
 2006年春、米国のゴルフ雑誌『ゴルフマガジン』社資料室で、『ザ・ナショナル・ゴルフレビュー』という雑誌が掲載した「1939年世界トップ100コース」ランキングのコピーファイルが発見された。そのなかで廣野は7位にランクされていたのだ。他に川奈・富士51位、東京・朝霞86位に入っている。3コースともC・H・アリソン設計である。
 4年で廃刊になった弱小雑誌の記事ではないか、と切り捨てられないのは、選者たちが凄い。ボビー・ジョーンズ、ジーン・サラゼン、アール・T・ジョーンズ・シニアと世界ゴルフ史上トップ級の有識者がずらり並ぶのだ。
 紹介したゴルフ評論家マサ・ニシジマ氏は、「アリソンは、英米のクラシックコース設計の集大成を日本に残そうとした」それが世界7位の高い評価になったのだろうとしている。
 「廣野は池あり流れあり、森あり、地形の変化あり、と言うようなことで、非常に面白く出来ている」と羨ましそうに語っているのは井上誠一である。

 廣野の至福は、多彩な表情の用地と、それを読み解く力をもった設計者C・H・アリソンに恵まれたことに始まる。その頃アリソンは、師H・Sコルトに代わって、埼玉県膝折村で、東京ゴルフ倶楽部朝霞コースを造成、設計中だった。好機とばかり廣野GCはアリソンに設計を懇願、現地を見てその魅力に心奪われたアリソンは、オリエントホテルに4日間籠って18ホールの設計図を書き上げている。
 廣野GCの18ホールは、どのホールをとっても“日本のベスト18ホール”の資格をもつ名ホールが並ぶ。その中から、ゴルフコースの顔といわれるパー3を紹介しよう。
 5番 (原設計とも152ヤード) 大きな谷(実際は池)越えの美しくもスリリングなホール。後にアリソンが浮世絵風のスケッチに書き上げたお気入りの景観である。原初の設計は、崖際に荒々しいアリソンバンカーを這わせていて迫力があり、クラシック派アリソンの面目躍如である。
 7番 (原設計190ヤード/現在211ヤード) 山岳コースのあるホールの第2打からグリーンまでを独立させた印象。グリーンを外して谷底へ落したときの絶望感は記憶に残る。原初の設計では、競うように這い上がろうとするバンカー群が凄まじく、高畑誠一は「デビルス・デビット(悪魔の爪痕)」と名付けていた。
 13番 (180ヤード/167ヤード) 半島状の地形の突端に突き出したグリーンが大池に向かって傾いている。それを狙って、山腹から斜めに打下ろすショットが美しくもスペクタクルである。何よりも“世界で一番絵になるパー3”といわれた眺めは忘れ難い記憶として残る。
 17番 (214ヤード/211ヤード) 170ヤードの湖越えの第1打、グリーンはその先50ヤードの林の中に小高く待機している。昔は、多雨期には、湖水がひたひたとフェアウェイを侵していたそうだ。
 アリソンの師匠H・S・コルトは、製図板を使った最初の設計者、近代設計の父といわれる。とくに“パー3のミケランジェロ”の異名があった。長い間師匠の事務所で共に働いていたアリソンもまた、絵のように美しくもスリリングなパー3を得意としていたようだ。
 他にも、ニクラスが果たすまで誰も2オンできなかった“東洋一のパー5”15番ホール、100人いれば100人の攻め方があるという14番、18番ホールなど、全18ホールが優劣つけ難い名ホール揃いである。
 

廣野の名物、13番パー3

アリソンといえば、気になるのは“アリソンバンカー”だ。人の身の丈より深く、エッジいっぱいまで白い砂をすり上げたのは、海風に吹き上げられるリンクスランドをイメージしたものである。

アリソンバンカーにもいろいろある。その百態を味わえるのも、廣野GCの楽しさだ。いや苦しさかな?戦場の塹壕を思わせる2番のクロスバンカー、10番のクロスバンカーはフェアウェイレベルに置かれていて、日本庭園の白砂敷の池を連想させる。
攻めて一番強い(こわい)のは、5番・7番・17番のパー3のアリソンバンカーである。とはいえ現在のアリソンバンカーは、庭園風にどこか整えられた風情がなきにしもあらずだ。本物のアリソンバンカーを見たいと思えば、高畑誠一写真集「1933」を読むことを薦める。開場の翌年の廣野の無垢を撮ったものだ。アリソンバンカーの凄まじい姿を目の辺りにできる。但し1刷100部の稀覯本で今まで3刷だけである。
 
廣野ゴルフ倶楽部は、ずば抜けて完璧である。それはレオナルド・ダ・ヴィンチの名画「モナリザ」に似ていると筆者はいつも書いている。「モナリザ」の微笑の美しさ、微妙さはどんな表現を並べても言いつくせない。絵の前に行ってまじまじと見凝めるしかないのだ。同じように廣野ゴルフ倶楽部のコースは、実際にプレーしないと、その真価は理解できないのである。なによりも、一度プレーしてみよう。
 なお、クラブハウスに隣接して、JGAゴルフミュージアムが建つ。日本のゴルフ史を辿るための貴重な資料が集められている。勉強家のゴルファーなら一度は参観してみたいものだ。
 
 
所在地         兵庫県三木市志染町広野7-3
                TEL 0794-85-0123
コース            18ホール・7169ヤード・パー72
設 計          C・H・アリソン
コースレート     74.8
 
 
廣野ゴルフ倶楽部の歴史
 
1931年(昭和6年)
  1月10日              アリソン氏レイアウト引き受け
  2月20日             造成工事始まる。
1932年(昭和7年)
  5月16日             18ホール完成
  6月19日             開場式
1944年(昭和19年)
  6月1日               閉鎖命令出る。川崎重工業の戦時農場に徴用される。                  
1947年(昭和22年) 乾豊彦氏を中心に7名の委員会を結成、コース再建に着手。 
1948年(昭和23年)
  6月20日             イン9ホール再開
1949年(昭和24年)
  6月19日            18ホール復興。
1987年(昭和62年)
  6月12日            緊急理事会で、ベントグリーンへの復帰を決議。
                   アリソンの設計に近い形に戻し、USGA方式のサンドグリーンとすることを決定。
  11月9日           グリーン改造工事着工
1988年(昭和63年)
  4月21日          グリーン改造工事完了
  4月23日          ベントグラスの種子(ペンクロス)散布
  10月16日       ベントグリーンテスト使用開始
  11月1日         ベントグリーン使用開始
                          (以上は「廣野ゴルフ倶楽部・70年のあゆみ」から抜粋)
        
                   註:廣野ゴルフ倶楽部は、株式会社でも社団法人でもなく、
                      日本では数少なくなった任意団体である