第49回 府中カントリークラブ

 

 

発祥は東京銀座だった

 『丘を越えて行こうよ
 真澄の空は、朗らかに晴れて・・・』
 戦後間もない昭和20年代半ば、大流行した歌謡曲、藤山一郎の『丘を越えて』の冒頭である。
 歌詩の中の“丘”は、今では小田急線向ヶ丘遊園付近多摩丘陵の裾の辺りを指しているが、元々は、もっと広い地域を指していた。多摩川沿い、日野から府中へかけての東京側の岸辺から川越に南・西方を遠望すると、多摩丘陵の長い稜線が右から左へ(西から東へ)連なって見えた。昔はその全体の眺めを“向が丘”といったもののようだ。
 昭和30年代に入ると、日本国中にゴルフ場新設ブームが起った。発火点は、東京、流行の火は、直ぐに東京の西郊、多摩向ヶ丘に点火した。
 昭和34年府中CC、35年桜ヶ丘CC、36年よみうりG、東京国際CC、37年多摩CC、38年相武CC、39年東京よみうりCCなど、続々と新コースが生れる、そのフロントランナーとなったのが府中CCだった。
 名門相模CCの影響を受けているといわれ、社団法人クラブに近い礼節を大切にする雰囲気のクラブだった。50年前の筆者の経験でいえば、食堂でのプロの取材は禁止、従業員控室か練習場に限られていたりした。
 
“こころは社団法人だった”

府中カントリークラブ クラブハウス

府中カントリークラブ クラブハウス

 府中カントリークラブ。経営も倶楽部も、発祥は銀座である。
 昭和28年当時、銀座3丁目、大通りから3本目、後1本で昭和通りという箇所に、銀座館というビルがあり、屋上ではゴルフ練習場とベビーゴルフコースを備えた銀座ミニチュアゴルフ㈱が営業していた。社長は、かの有名なゴルファー赤星四郎。ゴルフの名手必ずしも経営上手ではない。経営不振に傾いている時、札幌グランドホテル社長で相模CC会員の友人岩田彦二郎に助けられた。因みに岩田は、『自由学校』『てんやわんや』などで、戦後人気作家のトップ獅子文六(岩田豊雄)の弟である。(岩田豊雄は後に2代目理事長となる)
 岩田は、赤星の銀座ミニチュアゴルフを買収すると、銀座館屋上に900平方メートルのクラブハウスを新築(西郷佐設計)、4レーンのボーリング場、レストラン、集会場、4階にはタウンクラブを開設、会員1000名の東京スポーツマンクラブを組織した。(因みに、当時銀座館には、日本プロ協会事務所も入居していた)
 府中CCは、この組織を母胎に生れたと考えられる。昭和33年3月、岩田は東京都南多摩郡多摩村、由木村に広がる27万坪の低丘陵地にゴルフ場建設を計画、10月には㈱府中カントリークラブを設立、会長は岩田彦二郎自身、社長には相模CCの盟友佐藤享が就任する。
 昭和33年12月コースに着工。設計は、岩田が戦前の名コース武蔵野GC(千葉県)以来の知人富沢誠造に依頼した。富沢は武蔵野GC(六実、藤ヶ谷の2コース)で、現場監督、グリーンキーパーとして働き、戦後の昭和26年には、川崎国際CC(現・生田緑地G場)建設で、井上誠一の許で設計助手、その手法を学んだ。昭和32年の千葉CC川間コースで設計者として独立、以来手がけたコースは100を超え、昭和30~40年代には日本ゴルフ界に“富沢時代”を築いた。
 昭和34年4月クラブハウスの起工式。設計は銀座館屋上のクラブハウスを設計した西郷佐(後に袖ヶ浦CC旧ハウスなども)。
 すべて順調。着工から11ヶ月、昭和34年11月3日、18ホール・6840ヤード・パー72をオープンした。会員募集は、第1次30万円を300名、僅か10日で満員。倶楽部組織は、㈱府中CCの株主が正会員となる株主会員制だが、心は相模CCと同じ社団法人だった。

富沢誠造に珍しい丘陵の傑作

府中カントリークラブ 13番ホールから多摩センターを望む

府中カントリークラブ 13番ホールから多摩センターを望む

 富沢誠造の設計は、井上誠一の影響を受けて正統派である。特に、グリーン造りの名手といわれた。但しそれは、オーガスタナショナルのグリーンが攻めるに難しいという意味とは違い、芝発育のいい管理しやすいグリーンを造るという意味だ。
 富沢設計は、林間コースという形容名詞を最初に使った船橋CC、隣接の総武CCなど、平坦なコースの代表作が多い。
 彼は、経験上、素材としての自然を温和して受け容れる。ティとグリーンの間にデザイン上の技巧が少ない。府中CCでも同じだ。土木機械が未発達だったということもあろう。
 そこに丘があればその上から打ち下し、2打、3打と丘の裾を辿って、先に見上げるような山腹や丘があればそこにグリーンを置く。それが富沢流、2番(パー3)や15番(パー5)がそうだ。ピンフラッグは見えるがグリーン面は見えない或いは見えづらい。それが府中CCの新しさ。戦略的なおもしろさになっていたりした。
 その中から印象に残るホールを挙げるとー
 ①白マークから打っても400ヤード以上のタフなパー4が、5番、8、16、18番ホールと多い。昭和30、40年代には、十分に難ホールだったといえよう。
 ②左右を気にしながらフェアウエイに打つ3番(410ヤード)、4番(400ヤード)、5番(435ヤード)のツーショッターは十二分にタフだ。
 ③パー3では、打ち下し気味ながら砲台グリーンへ打つ7番(210ヤード)、17番(180ヤード)と、先に挙げた見えないグリーンへピンフラッグを頼りの2番(140ヤード)が、スコアメイクのキーホールだ。
 この他、2グリーンを一体化してベントの1グリーンとしたために、同じグリーンでも右と左、ピン位置によっては攻め方が変化するなど、18ホールそれぞれに多彩、戦略的変化があって、経験の長いプレーヤーほど、楽しみの多いコースである。

50年の歴史に二人の若者の秘話

 府中CCは、ジャンボ尾崎の初顔見せ舞台である。昭和46年の第1回JALオープンで、オーストラリアのデビット・グラハムと同点、3ホール・サドンデスのプレーオフとなった。その2回目の18番ホール、ピン足元を狙ったジャンボの強気の第2打が惜しくもオーバー、対するベテランのグラハムは、グリーン中央を狙ってパーセーブ。ジャンボ惜敗。しかし若武者らしい戦いぶりに魅せられたジャンボ人気は、この時から爆発した。
 もう一人ここで忘れられない花舞台を踏んだ若武者がいる。安田春雄プロ、この時20歳。18歳でプロ合格した安田は、その後数回2位を続け、期待は今日の石川遼のようだった。遼は18歳で優勝、人気爆発したが、安田は万年2位、「もうダメか…」の声さえ出始めた昭和44年関東プロ、これもプレーオフの3番ホールで勝利を射止めた。報道カメラがグリーン上の安田に駈け寄ろうとしたとき、安田は、今戦ってきたフェアウエイの方へ走り出した。空を見上げながら走っていた。泣いていたのだ。そこから杉本英世、河野高明、安田春雄の和製ビック3時代が始まった。
 危機もあった。
 昭和40年12月、八王子市中心の912万坪に、11万戸の多摩ニュータウン計画が発表される。その中に含まれる多摩CC、府中CC、東京国際CCは、当初緑地確保の見地から、買収対象外だったが、43年8月美濃部知事が突然、「農家だけにはしない。3ゴルフ場も買収対象」と宣言。東京国際CCは、27ホールのうち9ホールを買収された。府中CCも5万坪の練習場に転進せよと通告された。危機一髪だったが、昭和47年田中内閣の列島改造論が登場、九死に一生を得たという秘史もある。

所在地  東京都多摩市中沢1‐41‐1
コース規模  18ホール・6675ヤード・パー72
          コースレート72.4
設計者  富沢誠造
コースレコード  アマ 原田武史  67
           プロ 田中文雄  63