第31回 鷹之台カンツリー倶楽部
戦前の鷹之台GC
鷹之台CCは、昭和7年と昭和29年2度生れ変っている。
場所は、現コースとほぼ同じ。千葉県千葉郡犢橋(こてはし)村横戸字高台の通称高台山林22万坪。鷹之台は高台からとった。戦前の鷹之台は、CCではなくGC、昭和5年11月1日匿名組合大和スポーツ協会という集りが、この場所にゴルフ場を計画した。中心は、大正9年開場の鳴尾ゴルフ倶楽部のパイオニアメンバー伴田六郎、後藤半七朗など8名。コース設計は仲間の一人清木一男。大正年間の約10年、当時日本一の商社といわれた鈴木商店社員としてヨーロッパに滞在、性来多趣味器用で、その間にゴルフコースの設計からゴルフボールの製造技術まで習得したと、『鷹之台CC30年史』が伝えている。
昭和7年3月に完成した18ホールは、6720ヤード・パー72。英国のインランドコースを彷彿させる雰囲気だったといわれ、6720ヤードの総ヤーデージは、当時の日本最長だった。忽ち日本プロ選手権など、メジャーな競技開催が集中した。なお清木一男は、鷹之台の翌年六郷G、戦後30年代には青梅G、宇都宮CCを設計している。昭和8年東京世田谷に、日本初のボール製造工場を開設したという記録も残る。
この人気コースも、昭和9年~10年、赤星六郎によって改造され、6765ヤード・パー74となった。アウトにパー5が3ホール、インにはパー3が1ホールという変った展開だった。
場所は、全体として現在のコースとほぼ同じ。アウトは現在のインコース、現10、17番が戦前コースの7、9番、戦前のインコースは、現在の練習場から2、3番ティ下の印旛疎水までの間を占めていたようだ。
昭和16年12月8日以降戦局は日毎に緊迫。コースの一部は藷畑になり、クラブハウスは陸軍にとられた。しかし会員たちは図太かったようだ。空襲され機銃掃討に追われながらも、プレーを続け、昭和20年3月10日、東京大空襲の日も、爆弾で交通途絶となるまで、コースではクラブを振っている人がいたという。
完全復活した井上誠一設計(戦後の足跡)
苦難は戦後やってきた。開拓民が定着してコースは畑地化、伴田理事長も死去、倶楽部は自然消滅する。開拓農民の退去問題、農地化した旧コース用地の転用許可が解決、社団法人鷹之台カンツリー倶楽部を設立、新コースに着工するのは、昭和27年11月と後れた。それも、クラブハウスは牧舎風、牧場だからケンタッキブルーグラスの研究を義務づけられた「千葉牧場」としての許可、復活だった。
新コースの設計は井上誠一、しかし進行をめぐって倶楽部側と対立、1番~4番ホールを終わった時点で、和泉一介にバトンタッチした。戦後版の仮開場は、昭和29年2月1日、アウトは牧場、インがゴルフ場という半端な形だった。18ホール・6955ヤード・パー72が揃うのは昭和29年5月23日、緬羊80頭が戯れるユニークなゴルフ場だった。長大なヤーデージを求めて、公式競技が相次いだ。中でも昭和36年の日本オープンは、ゴルフ史に残る熱戦だった。
289ストロークで5人がタイとなった。時間はすでに午後5時、薄闇の迫る中、コース中の車を集め、それらのヘッドライトの光りを頼りにプレーオフを続行。8番ホールで決着したときは、競技委員が懐中電灯でグリーンを二重に照らしてプレーを助けた。夕闇の熱戦を制したのは細石憲二(下関)だった。
各ホールとも端正な展開である。左右の森、林、さらにフェアウエイに立つ大きな松の独立樹が、そのホールの戦略的なキーポイントとして置かれているので、それらを中心に、ティグラウンドでどこまで洞察力のあるゲームプランを描けるかが、コース攻略の成否の鍵である。
2番(404ヤード・パー4)は、2段フェアウエイで、グリーンが斜めにクロス気味に置かれている。左のやや高めのフェアウエイから3オン狙いか、右の低いフェアウエイから2オン狙いのビッグドライブでゆくか。それぞれのプレーヤーのプレー哲学が試されるホールだ。4番(535ヤード・パー5)は、第2打以降グリーンに乗るまでツマ先上りのヒロイックラインでゆくか、右上の狭いフェアウエイから3オンで狙うか。グリーンは大きくない。
各ホールとも、グリーンまわりのバンカーは、いずれも本格的なバンカーショットを要求されるので、無理な挑戦はせず、逃げられるラインから安全に避けて通るか。
コースは、前述の通り井上誠一から和泉一介に設計者が途中交代してつくられていたが、2000年日本オープン前に、井上設計が完全復元された。その結果優勝スコアは、尾崎直道の281ストローク。ボール、クラブがバカ飛びする時代になっても、鷹之台は長大さだけではない名コースぶりを実証した。
所在地 千葉市花見川区横戸町1501
コース 18ホール・7102ヤード・パー72
設計 井上 誠一
コースレート 男子73.6 女子79
コースレコード (アマ)布川 弘久 69
瀬戸 信昭 69
(プロ)小針 春芳 68