第33回 大利根カントリークラブ

 

 

ニクラスが推奨
日本では、廣野と大利根が・・・

大利根カントリークラブ クラブハウス

大利根カントリークラブ クラブハウス

 「コースでは廣野と大利根が最もよいコースだと思ったが、特に大利根はレイアウトがよいし手入れができているので感心した」(『大利根』創立20周年記念号)
 これは昭和38年9月29日、訪日中のジャック・ニクラスが安西 浩理事長の招待で、大利根CC東コースをラウンドした時の感想を語った言葉である。日本では、広野GCと大利根CCが名コースらしく印象的だったと語っている。

関東の名コースは、松の平地林に多い・・・

 日本らしい自然の風致に、一番ふさわしい樹影は何か、松である。できるだけ亭々と丈高く枝ぶりも逞しい黒松がいい、樹膚の艶な赤松もいい。当然日本のゴルフ場で、名コースといわれるほどの景観の主役は、高い松である。
 関東平野には昔から松の平地林が広がっていて、そこには名門コースが集まっている。埼玉県の入間川を挟む入間、狭山台地には、東京GC、霞ヶ関CC、武蔵CC豊岡、笹井、日高CCなど、松の独立樹や樹林を美しく並べたコースが、隣り合っている。松の木は杉、桐、樫と違い建築材にも家具材にも使えない。そこで用途の少ない松の平地林が、折から流行のゴルフコースに使われたという事情に助けられたようだ。
 少し離れて千葉県野田と茨城県岩井との間にも、利根川を挟んで松の平地林が広がっていた。松は役立たずだが松根油は燃料として有効で、野田の松林は、醤油醸造の燃料として栽培された事情もあったようだ。昭和29年開場の千葉CC野田をきっかけに、この地区にも千葉CC3コース、紫すみれ、あやめコースが出現する。
 利根川を野田から岩井に渡るには、昭和34年頃までは芽吹の渡し舟を利用していた。
 渡るとそこには、その昔ムジナに騙された農民が道に迷い死したという伝説の松林が涯しなく続いていた。その先は、平 将門の営所が置かれていた故地常陸国猿島郡石井(岩井)の聚落だ。
 どれくらい広かったかは、設計者井上誠一自身が、コースの中に入ると”自分が設計していながら何番ホールにいるのか分らなくなることがある”と嘆いているほどに広く深かったようだ。
 昭和34年、その平地林に目をつけた鉄道会社、京成電鉄と東武鉄道をバックにした常総筑波鉄道の2社が、それぞれに18ホールズのゴルフ場新設計画を抱えて、用地買収に動いていた。
 両者を握手させたのが、鉄道官僚のドン佐藤栄作(当時大蔵大臣)だった。両社の18ホールを併せて36ホールのコースをつくる計画に一本化、昭和34年8月26日、大利根カントリークラブが生れる。初代理事長 安西浩(東京ガス社長)、初代社長 高田寛(元鉄道省、参議院議員)。佐藤栄作の名も発起人、理事の中に見える。同年9月30日地鎮祭。工事は、34年開場したばかりの武蔵CCと同じ、コース施工大木建設、設計井上誠一が担当。井上は、多忙を理由にためらっていたが、ヘリコプターから現地を視察するや否や、「二度と手に入らない土地だ。価値あるゴルフ場ができる」と急転して設計に熱を入れた。工事は超スピードで進んだ。翌35年8月1日に、西コース7065ヤード・パー72が完成、同月19日には東コース18ホール・7024ヤード・パー72が完成。殆ど同時に36ホールを仕上げるというスピード工事だった。約40万坪の松林の中、井上が必要な松に印をつけ、他の何十万本は、すべて無料で周辺の住民に払い下げた。それも工事のスピードを上げた。戦後15年まだ物資不足、燃料としてバラック建材として、払い下げ松材が大いに役立ったと、会報「大利根」に残る。

「松の木論争」の行方

大利根カントリークラブ 東コース

大利根カントリークラブ 東コース

 井上誠一は、大利根CCで、霞ヶ関CC・東京GCなど端正な従来型名門コースとは違った趣向の“松の名コース”をつくろうとしたようである。特に背の高い独立樹の松を、風致としての美よりも戦略的なバーチャル(直立した)ハザードとして縦横自在に使っている。多くのホールで、フェアウェイ上に背の高い松の木が残されているが、それらは造園上の景色ではなく、慎重に配置された“油断ならざる戦略的装置”として警戒する必要があるのだ。
 中には、フェアウェイの高い松は、攻めるに邪魔だ、伐ってしまえと主張する人も現われる。
 東コースの9番ホールでは、有名な「松の木論争」が生れた。
 当時のアマチュア界の名手鍋島直泰(日本アマ選手権3勝)は、「樹一本技一フリ、一日ニテハ成ルモノニテハナク、コノ自然ヲ生カシテ造ラレタル設計者ノ意図ハ決シテ軽々ニスベキモノニアラズ、(中略)ホール毎ノ姿ニ従ツテ、PLAYシテユク所ニGOLFノ妙味在ルモノト考エマス」と現状維持を主張。トップアマチュアで後に日本ゴルフ協会会長となる細川護貞は、「コース内の松を切る切らぬは、設計者(確か井上誠一氏)の意見によって決定すべきものと考えます。プレーヤーの意見(希望)によって決定すべきものではないと確信します。その理由は、プレーヤーは与えられた条件に於て最善をつくすべきであって、失敗の責をその条件に帰すべきではないと確信するからです。これは、あらゆるスポーツにおける鉄則と考えます」と強硬な現状擁護論を主張した。これに対して「邪魔になる木は伐れ」と主張した大物プレーヤーがいた。昭和38年9月29日、折柄来日中のジャック・ニクラスは、「(前文略)ゴルフのプレーは幸運によって左右されるものであってはいけない。それゆえ、コースの中でよいショットをするのに邪魔な樹はない方が望ましい。大利根の樹をもう少し整理したら、もっとプレーヤーの間によい評判が出るであろう」と語っている。
 後日譚を紹介すると、東コース9番ホールの第1打落下点付近にあった2本の巨松は、1本は松喰虫の害で、もう1本は伐採されて姿を消している。

NHK初のゴルフ大会放映

 昭和35年8月1日、西コース18番ホール完成。同月19日、東コース18ホール完成。36ホールズの同時進行、ほぼ同時完成だった。10月9日、西コース高松宮、同妃殿下、東コース佐藤栄作の始球で同時開場式が行われた。
 昭和35年前後のゴルフコースは、18ホール・6800ヤードでチャンピオン級といわれた。そこへ7000ヤード超、難コースの36ホールが出現したのだ。プロトーナメントが集中しそうだが、大利根CCは、安西 浩理事長路線のJGA、アマチュア中心という歩みだった。日本オープン1回、関東オープン1回はあるが、プロだけのメジャー競技はない。平成22年には日本女子オープンに東コースを開放している。(宮里美香が優勝)。アマ重視で関東アマ選手権3回開催が目立つ。昭和45年の日本オープンは、優勝10アンダー278の韓 長相(韓国)、1ストローク差で爆発的に売り出し中のジャンボ尾崎が続いた。競技も熱戦だったがこの大会は、NHKのゴルフ競技放映第1号、初めて入場料を有料にしたことなどで記憶されよう。

所在地   茨城県坂東市下出島10
         ㈱大利根カントリー倶楽部
コース規模 (西)18H  7065Y  P72
          (東)18H  7024Y  P72
コースレート  西73.5  東73.4
コースレコード  (東)アマ 嶋田憲人 66
                プロ S・オンシャム 66
             (西)アマ 阪田哲男 67