第61回 高坂カントリークラブ
プロローグ
今年で第40回を迎える日本プロツア機構のメイン競技「フジサンケイクラシック」が、昭和48年(1973年)第1回大会を開いたのは、高坂カントリークラブ米山コースだった。グラハム・マーシュ(優勝)が中村通を1点差に押さえて優勝している。
大熱戦は、フジテレビで全国放送され高坂CCの名は、日本中に広まった。
創業から開場まで
時代は、昭和20年代に溯る。
その日馬場宗光は、フィリピンのバギオにいた。彼は、電源開発関係の技術者で、東南アジアに出かけることが多かった。フィリピンにゴルフが入ったのは、20世紀に入ってから。アメリカの支配が続いたので、ゴルフは比較的広く楽しまれ、50コース余のゴルフ場が生れた。馬場にもゴルフの機会が多かった。ある時、山の景色がいいので評判のコースでプレーした後、
「ここは、故郷の比企丘陵の山に似ている。比企丘陵にもゴルフ場をつくれるということか」
と直感した。
実現へ動き出すのは、中村寅吉、小野光一がカナダカップに優勝、ゴルフブームの契機になった昭和32年10月だった。馬場は、土木建築工事の調査設計を目的として設立していた東京工務㈱の社名と目的をゴルフ場建設、経営を目的とする東観光開発㈱と変更、高坂CCの建設に動き出した。平山復二郎が協力した。
場所は、東上線高坂駅から車で5分、比企丘陵が平野に沈み込もうとする東端のおだやかな地形の山地だった。馬場は、平山の弟で元運輸次官で川崎国際CC理事長平山孝に用地調査を依頼。孝は、川崎国際CCでグリーンキーパーでコース設計を始めた富沢誠造を伴って現地に入った。富沢の診断は、「地形はいいが土質が悪い」ときびしかった。強い粘土質の土に砂利が混入していてコンクリートのように堅い。「これでは造成は難しい」。しかし馬場は、ゴルフ場を造れないことはない、と諦めなかった。
昭和33年4月、起工式を挙行。鹿島建設の支援を受けて東観光開発を、50万円から200万円に増資。鹿島建設から4名の役員が入った。
事業は先へ、快調に展開する。34年1月9ホール完成、7月米山コース18ホール・6835ヤード・パー72が揃った。
昭和35年1月、会員組織高坂カントリークラブが平山孝理事長で発足。3月岩殿コースのインコース着工、10月完成、27ホール営業を開始する。
昭和37年8月、資本金200万円は800万円に大幅増資され、経営権は馬場宗光から鹿島建設に継承された。同じ8月岩殿コースアウト完成、18ホール・6825ヤード・パー72が揃い、全36ホールとなる。住友グループも昭和38年2月、正会員(100万円)360口募集のうち213口を協力、昭和39年1月理事長に、住友銀行頭取堀田庄三が就任する。これら大資本の相次ぐ資金協力によって、透水性の悪いフェアウェイには、2万メートルの排水暗渠がめぐらされ、雑草の生えたフェアウェイは、緑のカーペットに生れ変って行った。
米山、岩殿コース36ホールの魅力
〔米山コース〕(18ホール・6773ヤード・パー72。設計・富沢誠造)。
富沢誠造は、高坂CCを設計したとき川崎国際CC(現、生田緑地ゴルフ場)のグリーンキーパーだった。そこには名匠井上誠一がいて、その影響を受けたが、井上の近代的、高度なコースに対して富沢は、アベレージ級が楽しめる穏健なコースを狙った。その意図が折からの爆発的ゴルフブームに迎えられて、富沢設計のコースは、昭和35~50年の間に80コースを超えた(100コース説も)。高坂CC米山コースは、彼の処女作である。
米山コースは、開場当時「難しいコースだ」と評判をとった。難ホールを挙げるとすれば、フジサンケイクラシックの頃、取材班の中で、「あのホールが終わるまで勝者は誰か決まらない」といわれた17番(485ヤード・パー5)だろう。プロならイーグルもあるがボギーも。アベレージでも、幸運に正確なショットを連ねられたらパー、強気になりすぎたらダブルボギー、最悪トリプルも、というホールだ。ヤーデージはパー5にしては短いが、全体にフェアウェイは馬の背でグリーンへ向ってアップスロープ、狭い。そして左側はOB線が続く。馬の背中の左半分へ止ったボールは必ずフックボール・ライになる。ボールの飛ぶ先はOB線だ…。どこまでもセンターラインに忠実に、それが17番ホールの攻め方である。
米山コースで難しいのは、ドナルド・ロス型(王冠型)のグリーンへ乗せるショットだ。グリーンは皿を伏せたような型で置かれていて、中心を外れたボールは、外へ外へと誘われ、流れる。ピンが外近く立ったとき、それを狙うのに、人は不安に捉われるのだった。挙げれば1、2、6番が特に難しい。
平成8年秋、米山コースをラウンドした。昭和36~40年頃親しんだコースだったから、36年ぶりである。米山コースの樹林は大きく育ち、一種審美的な雰囲気を纏って広がっていたまるで林間コースだ。「林間コース」という形容詞を最初に使ったのは富沢誠造の代表作船橋CC(千葉県)である。同じ富沢の処女作が、目の前に“丘の上の林間コース”として秋色の中に輝いて見えた。
〔岩殿コース〕(18ホール・6565ヤード・パー72)
米山コースから見て、進入路の左側に隣接して造られた18ホールだ。当初設計者は、吉崎満雄とされていたが、昭和60年大改造以後は東観光開発即ち自社設計。吉崎は、設計者下山忠廉の弟子。高坂CC建設時はグリーンキーパー、コース部長を勤め、鹿島建設の応援で芝の新種スプリングベントグラスを開発、その後独立して「スプリングス」グループのゴルフ場15コースを経営していた。
当初の岩殿コースは、ゆったりした米山コースに比べやや変化のある展開だったが、昭和60年の大改造で、よりフラットになった。しかし平坦にはなったが、戦略的な変化が消えたわけではない。たとえば7番(330ヤード・パー4)は、ヤーデージが短い分、右ドッグレッグの変化で補い、屈曲点に2個のバンカーを配置、戦略アップを図っている。
同じ右ドッグレッグだが、4番ホールは逆だ。曲り角にはトラップはなし、しかし443ヤードとヤーデージをタフにすることで戦略的対応をしている。
プレイアビリティが高いのは15番(570ヤード・パー5)だ。距離が18ホール中随一、それがこのホールをヒロイックにしている。ティからグリーンまで、右側に林を伴走させて、思慮を欠いた長打狙いを許さない結構も悪くない。
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<フジサンケイクラシック 優勝スコア>
1973 グラハム・マーシュ 272-68・66・70・68 中村通273
1974 グラハム・マーシュ 276-71・67・71・67 中村通277
1975 呂良煥 280-71・71・68・70 G・マーシュ284
1976 鈴木規夫 279-71・70・72・66 呂良煥279 (プレーオフ)
1977 宮本康弘 287-75・70・72・70 山本善隆288
1978 島田幸作 278-70・71・69・68 青木功281
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所在地 埼玉県東松山市大字高坂1916-1
コース規模 米山18ホール・6773ヤード・パー72
岩殿18ホール・6565ヤード・パー72
設計者 米山コース 富沢誠造
岩殿コース 東観光開発(自社)
コースレート 米山 72.4 岩殿 71.2
開場 昭和33年11月9日