第78回 会津磐梯カントリークラブ

 

 

刈払い草原で昭和天皇の初打ち―東北ゴルフ発祥の地―
 

会津磐梯カントリークラブ 1番ティ 昭和天皇、鳥狩原ゴルフ記念碑

会津磐梯カントリークラブ 1番ティ 昭和天皇、鳥狩原ゴルフ記念碑

 会津磐梯カントリークラブは、東北ゴルフ発祥の地である。
 
 1番ホールのテイクグランドには、「東北ゴルフ発祥の地、昭和天皇鳥狩原ゴルフ記念の碑」が建立されている。同コースの開場30周年を記念して、平成4年10月9日当時の社長猪俣昭洲、理事長山田源次の主唱で、全役員、全会員、全従業員による拠出金でつくった約600文字の大きく、見事な石碑である。長い碑文の内容をまとめると、つぎの通りである。
 昭和天皇は、御新婚の皇太子時代、大正13年8月、妃殿下と一緒に、猪苗代湖畔の高松宮御別邸天鏡閣に滞在され、秩父宮殿下と一緒に磐梯山の登山、乗馬、テニスなどのスポーツを楽しみながらひと夏を過ごされた。
 その夏の8月7日、鳥狩原を刈払いして造成されたゴルフ場で、妃殿下と共にゴルフを楽しまれた。
 その鳥狩原ゴルフ場は、現在の会津磐梯カントリークラブのアウト1番から4番ホールの位置に展開したものと推定されると、碑文は記録している。
 以上が、碑文に記録された“東北ゴルフの発祥地”たる根拠である。『会津磐梯カントリークラブ30年史』には、鳥狩原ゴルフ場についての記述は、さらに詳細である。
 昭和天皇が逗留された猪苗代湖畔の高松宮別邸天鏡閣は、元は明治41年8月有栖川宮が湖畔長浜の雑木林に建てられた八角塔つき天然ストレート葺きの西洋建築で、後に高松宮別邸となったもの。昭和天皇の来臨は、皇太子時代の大正5年7月から6回、特に碑文にもあった大正13年8月は、25日間の長いご滞在だった。到着5日目に草原を刈払いしただけの鳥狩原でゴルフを楽しまれている。『30年史』によると、その日の昭和天皇は、グレーの背広にヘルメットの軽装で、ピンクの服装の妃殿下を乗せて、自らキャブリオレを運転、鳥狩原まで疾駆して、高原の夏を楽しまれた、と詳しい。
 この日のゴルフには、地元3郡の小学校から選ばれた御用奉仕団がキャディーとして奉仕している。昭和天皇最後の天鏡閣は、昭和59年9月、御結婚60周年(ダイヤモンド婚)を祝うハネムーン旅行だった。この時迎えた中には、少年奉仕団と陛下御愛用のキャブリオレがあった。鳥狩原ゴルフ場が、現在の1番~4番ホール付近だ、と想定されたのは、この時の少年奉仕団生き残りの証言によるものである。
 因みに、鳥狩原は、猪苗代湖畔に広がる草原大野ヶ原の一部である。江戸時代には、会津藩の演習地だった。東南端にある小高い御殿山には、藩主が陣取って、旗指物を押し立てて巻狩を展開、藩士は勿論城下町の人々も見物に集ったので、鳥狩原と呼ばれるようになったという。鳥狩原は、明治維新では、白虎隊の戦場となり、第2次大戦中は、会津若松連隊の演習場となった。

大野ヶ原の地形を生かし流れるように…
 
 会津にもゴルフ場を造ろう、と動き出したのは、昭和36年。中心となったのは大竹作摩。県議、知事、代議士と、「会津の発展」と共に歩いた会津政界の重鎮だ。彼の脳裏には、「ゴルフ場の一つもなければ、会津の発展はない」であり、狙いは、昭和天皇の鳥狩原、大野ヶ原であった。当時の福島県には、吾妻山麓の高湯温泉に9ホールの小さなゴルフ場があるだけ。しかも一部スキー場を利用したものだ。地元のゴルフ愛好家は、隣県の宮城、栃木、茨城県まで遠出を強いられていた。
 昭和36年頃、会津若松連隊の演習地だった大野ヶ原は、敗戦で採草や薪炭用の伐採林として細々と利用されていたが、薪炭も石油にとってかわられ、放牧地でもするか、と忘れられがちだった。大竹の計画は動いた。昭和36年6月 大野ヶ原組合から土地600町歩を借用(株)会津磐梯カントリークラブ、資本金500万円、代表大竹作摩を設立。
 造成工事は、当時コース新設でトップランクの岡工務店(岡耕造社長)、コース設計は当時人気随一のプロ陳清波の師匠陳清水。すでに京葉国際、サザンクロスなどを設計して定評があった。陳清水は「原地形をあまりいじらず、大野ヶ原の原形を生かした流れるようなコースレイアウトにしたい」と設計の趣旨を語っている。
 昭和37年9月15日アウト9ホール仮オープン。昭和38年7月14日18ホール・6909ヤード、パー72をグランドオープン。

所在地     福島県会津若松市河東町八田大野原62
コース規模   18ホール・6756ヤード・パー72
コースレート  72.6
設計者     陳 清水
開場年月日  昭和37年9月15日
経営       (株)会津磐梯カントリークラブ