第36回 那須ゴルフ倶楽部

戦前流クラシッククラブライフの記憶

那須ゴルフ倶楽部 ハウスまわりの1、9番は全くの平坦。夏には子どもの運動会をやった。

那須ゴルフ倶楽部 ハウスまわりの1、9番は全くの平坦。夏には子どもの運動会をやった。

 ゴルフクラブの「クラブライフ」について考える時、いつも真っ先に浮かぶ言葉がある。それは、ベストセラー『てんやわんや』『自由学校』などの作家獅子文六が、那須ゴルフ倶楽部について書いた文章である。
 「ゴルフだけならどこでもやれる。泊りがけでこの山奥にやってくるのは、クラブライフを楽しみたいからだ」
 昭和30年頃までの那須GCには、どんなクラブライフがあったか。少し触れてみよう。
 コースの開場は、昭和11年7月。ところがクラブハウスは、まるまる一年前の昭和10年7月に作ってしまっている。そこが「ゴルフよりもクラブライフ」と思われておもしろいのである。
 那須GCの「50年史」を読むと、家族会員育ちのメンバーが多い。戦前は、ゴルフをしない奥さんたちも家族会員になっていたようだ。クラブハウスのラウンジは、夜の10時まで明いていて、奥さま家族会員たちは自由にお喋りを楽しんでいたようだ。因みに今でもラウンジは夜10時までである。またハウス廻りの1番、9番ホールは全くの平坦地、そこで夏には、子どもたちの運動会を開いていた記録も残る。獅子文六は、そういう那須Gのクラブライフをどこよりも好きだったのだろう。

“霞ヶ関CCの別荘”といわれた歴史
     那須五峰を見渡す自然の雄大さ

那須ゴルフ倶楽部 14番フェアウェイから那須岳を見上げる

那須ゴルフ倶楽部 14番フェアウェイから那須岳を見上げる

 戦前の那須Gは、霞ヶ関CCの夏の別荘といわれた。会員の80%が霞ヶ関CCの会員で、夏になると霞ヶ関のプロは那須で練習し、冬には、那須の人気プロ小針春芳は、霞ヶ関CCで練習した。軽井沢Gの会員の大部分が東京Gのメンバーだったことに対比したのである。
 那須高原の開発は、大正15年の御用邸開設から始まる。御用邸人気で別荘地売り出しは好調、軽井沢とよく比較された。標高もほぼ同じ1,000メートル前後だ。しかし軽井沢には別荘+ゴルフ場がある。昭和8年頃には「那須にもゴルフ場が必要だ」となる。相談した相手が、霞ヶ関CCの設計者で創設者の藤田欽哉だった。
 那須Gの設計は、藤田と井上誠一の共作になっているが、事実は井上誠一のソロデザイン第1号である。後に会長となる安田一がそう語っている。標高800~1,000メートル起伏の多い20万坪の山野を、人海戦術で造成した。用地は、上の平地と下の緩斜面に分かれていた。土量工事は上から始めて、下へ落す工法で進められた。約30メートルを豪快に打ち下す16番(220ヤード、パー3)の名物ホールは、その名残りである。ドラスティックな場面だが、同時にこのホールから遠望する関東平野のパノラマビューの魅力も見逃したくない。
 11番~15番の上の平坦部からみる那須五峰の自然美も雄大である。コースは、春は15番ホール中心に赤いヤマツツジや白いゴヨウツツジ、秋は全山に紅葉を纏う。その景勝美は軽井沢にはない魅力である。この区域では、広いフェアウェイから見上げる那須岳が印象的だ。
 那須Gも、今は東京から2時間である。しかし戦前は5時の列車を逃すと帰京は無理。一番近い黒磯駅からの急行電車がなくなるからだ。17番は、180ヤード先の小山に遮られて谷越え第1打の落下点が見えず、OB続出、狭いティグラウンドには、順番待ちがズラリ。これでは東京帰りの電車におくれる。相談の結果、前方の山を崩してフェアウェイを見せるようにしたという話も残っている。
 筆者は嘗て、「あらゆる意味で戦前流のクラシックコース(クラブ)を見たければ那須GCである」と書いたことがある。今も変らない。
所在地  栃木県那須郡那須町大字湯本212
コース  18ホール・6615ヤード・パー72
コースレート  71.8
設計者  藤田 欽哉   井上 誠一
コースレコード  アマ 野村定彦  69
           プロ 小針春芳  69