第66回 多摩カントリークラブ

 

 

「多摩CCの隣にマンション買って毎週木曜日にゴルフ三昧」
 

多摩カントリークラブ クラブハウス

多摩カントリークラブ クラブハウス

 多摩カントリークラブについては、筆者には、忘れられない二つの記憶がある。
 一つは平成2年、『週刊ゴルフダイジェスト』誌の連載「ゴルフの歴史を歩こう」で取材中のことだ。
 5番テイに立ったとき、同行の結城宇明常任理事が、すぐ近く50メートル離れた隣接の15階建マンションを指さして、
 「定年退職したばかりの紳士が、あのマンションの一区画を買い、当クラブのメンバーとなって、毎週木曜日に必ずプレーされています」
 と説明された時のことを、今も忘れられない
 多摩CCは、東京西郊、人口20万人の巨大ベッドタウン『多摩ニュータウン』の林立する高層マンション群の内側に造られた18ホールである。
 隠退後の第二の人生の拠点を、ゴルフ場の隣のマンションに定めて、毎週のゴルフプレー、“これからの人生にはそういうゴルフライフもあるのか”と、思いを改めさせられた記憶である。

20万都市「多摩センター」の中に18ホール多摩CC
 

多摩カントリークラブ 5番ホール テイ

多摩カントリークラブ 5番ホール テイ

 第二の記憶は、多摩CCの前史に遡る。
 昭和30年代前期によく歌われた『丘を越えて』(岡晴夫唄)という歌がある。その“丘”とは、東京都側から多摩川を挟んで望んだ多摩丘陵のことである。
 多摩丘陵にゴルフ場計画が動くのは、昭和20年代後半から。昭和27年開場の川崎国際CC(現・川崎国際生田緑地)が最初、日野CC(途中挫折)、桜ヶ丘CC、府中CC、東京よみうりCC、東京国際CC、相武CCと続く。他にも計画が動き、潰えた例も二、三あり。
 その中で多摩CCの前身多摩ゴルフ倶楽部が動き出したのは、昭和33年春。多摩ニュータウンの建設計画が決定するのは、昭和40年12月、7年の隔りがある。ゴルフ場が住宅マンション群の中にもぐり込んだのではなく、すでに営業中のゴルフ場の上に、多摩ニュータウン計画という大きな公共の網をかぶせようとしたのである。美濃部革新都政が、ゴルフ場よりも住宅団地だ、練習場なら認めてやろうと、府中CC、多摩CC、東京国際CCの3コース接収にかかってたことは、今は昔。その中で、東京国際CCが遂に27ホールのうち9ホールを接収されてしまったことも記憶に遠い。
 昭和33年春、多摩ゴルフ倶楽部(浅野欣也社長)が登場、1口30万円の募集が忽ち満枠、7000万円を集めた。しかし用地買収は進まず、起工式の日になっても1坪の土地もなく挫折。その頃多摩丘陵に続出していた、カネ集めが目的のゴルフ場建設スキャンダルの一つだったのだろうか。
 会員たちが立上がった。2代続いて会員による建設委員長が続いたが不調。昭和35年2月28日、会員の総意によって、社長・曽谷正(丸正産業)専務・中田実(月光真珠)の新経営陣による新会社多摩カントリー倶楽部(現在は多摩興産)を設立した。新会社は、多摩ゴルフ倶楽部の権利、義務を継承するが、会員のカネは一切使わない、曽谷社長は「不安な会員は退会して下さい、預託金は返却する」と会員に通達、資本金2000万円は全額新役員が出資した。覚悟の再出発だった。用地の完全買収が終わった昭和35年12月、50万円、60万円で会員募集、不足額は曽谷社長が私財を投じた。
 曽谷正。デュポン・ダウケミカル日本総代理店・丸正産業(現在は、東証2部上場のソマール株式会社)代表。

ある取材記者の記憶

 この間の数年、筆者は、度々、多摩CCの建設現場を訪ね、取材した。
 昭和34~35年頃の調布~町田を結ぶ鶴川街道は車の姿も少く、バスも2時間に1回ペース、取材は南武線矢ノ口で下車、鶴川街道を南へ柿生方面へテクテク歩いた。街道沿いの家は屋敷林に囲まれた農家が200メートルに1軒、2軒散在するだけ。8月の炎天下を約1キロ歩いて、左へ行くと東京よみうりCCの建設現場、右は、低山へ上ると多摩CC建設現場事務所へ出る。その分岐点の右袖に小さな小屋があった。来客を案内する多摩CCの出先だ。酷暑の8月、小母さんが大皿に装ってくれる冷たーい氷水が有難かった。そこからさらに20分、低い山道を辿る。事務所前で、森川所長がオーイと手を上げていた。
 森川幸吉、伊豆・川奈出で、「川奈小唄」を作詞作曲したという酔人・詩人だ。だがこの頃の関心事はゴルフ場用地のこと。向うの山の東京よみうりCCの動きだった。
 「大新聞のご威光だろうか。お向かいさんは用地確保も順調らしいよ」
 と、同じ地主相手に悪戦苦闘したことをぼやいた。森川は、多摩CC経験の後、昭和42年、すぐ近くのあきる野市にGMGM八王子CCを自力で開発する。GMGとは、グループ・メンバーズゴルフの略。4人で一枚の会員権を使えるようにと、森川が、若いサラリーマンのために開発した新種ゴルフ会員権だった。
 森川幸吉は筆者の“多摩CC取材経験”では最も記憶に残る一人である。

 昭和36年10月、インコース(現アウトコース)を仮開場。
 昭和37年8月4日、18ホール・6530ヤード・パー72が、正式開場。前身の多摩GCが動き出してから5年目、曽谷正社長による多摩CCとして再出発してから2年6ヶ月の目的達成だった。

クラブハウスから見下ろす鳥瞰図
        安田幸吉設計18ホールズ

多摩カントリークラブ 18番ホール

多摩カントリークラブ 18番ホール

 平成2年に新しくなった現在のクラブハウス(日立ビルシステム設計)は、「表玄関はつつましく平屋建て、コースからみると、懸崖式の3階建とユニーク」(これは、5年前書いた筆者の表現)な設計である。18ホールのコースは多摩丘陵の低い山地25万坪の谷あいの入り組んだ小盆地に上手に展開していて、外周は高くはないが崖である。その崖に懸けられた絵のように、3階建のクラブハウスが印象的に見えるのだ。
 逆にクラブハウスから見ると、アウト3本、イン6本のコースが、眼下にひと目で扇形に広がって見えるのである。
 コースは丘陵地の尾根とその間の山懐の窪地を利用した展開だから、長くはない。しかし、設計の安田幸吉は、「山コースにしては面白いコースができた」と語っている。安田は、名門東京ゴルフ倶楽部が、駒沢コースだった頃からの生え抜きのプロゴルファー、日本プロゴルフ協会初代会長、勲3等瑞宝章の先覚者で設計したコースは旧軽GC、小樽GC、千葉・梅郷など54コースを残している。
 設計の特徴は、ロングドライブを競わせたり、身の丈を没する深いバンカーを構えたりするドラスティックなデザインではなく、第2打、第3打とグリーンへ近づくショットの繊妙、正確な読み、テクニックを求められるコースである。
 多摩CCでも、第2打、第3打とグリーンに近づくにつれ右ドックレッグしながらやや打ち上げるホール(たとえば10番、510ヤード・パー5)のように、変化と距離の繊妙をどう読むか、上級のテクニックを求められるシーンが多い。
 17番ホール(パー5)は、バックテイ609ヤード、レギュラティ588ヤードと、このコースとしては超長い。しかも打ち下しだ。抑えられて来たロングドライブの鬱憤を一辺に晴らしたい場面だが、250ヤード附近から左へドッグレッグしている。その先は坦々とグリーンまで広い。第1打のコントロールが鍵となる。
 全体に、低山地の尾根と尾根の間の谷隘を利用したコースだからOBが近い。距離を狙うよりも慎重な読みが必要。しかもその中で積極性を失わないことだ。

所在地      東京都稲城市坂浜3360
コース規模  18ホール・6742ヤード、パー72
          コースレート・71.2
設計者      安田幸吉
開場        昭和37年8月4日