第40回 《小山ゴルフクラブ》 「赤星六郎の再来」といわれた夭折の名手・久保田瑞穂ゆかりの地

 

 

7番ホールのサクラ伝説

小山ゴルフクラブ クラブハウス

小山ゴルフクラブ クラブハウス

 小山ゴルフクラブ(栃木県)のアウトコース9ホールは、創業者でもある久保田篤次郎氏の広く、日本庭園のような農場を利用したレイアウトで、桜、梅林、ツツジ、竹林が、コースを飾り、時には障害物として利用されているのが特色であり、魅力である。
 中でも7番(421ヤード・パー4)ホールの35本の桜並木は、春になると見事な花景色を見せることで有名。物語もある。
 昭和30年代から平成23年の現在までプロゴルファー人生のすべてを小山GCで過しているヘッドプロ金子良平は
 「7番ホールの桜吹雪の下でプレーをしてみたい」との願いでプロ志願したといわれている。
 金子良平エピソードには、続篇がある。
 7番ホールの人気の桜も、年月が経つにつれて枯れる木も出てきた。コースを外れた硬いゴルフボールが当ると、桜の木は痛がって、「涙のようにヤニを流してやがて枯れるのだそうだ。」長年それを見ていた金子良平は、会報『小山』30周年号で、“桜にボールを当てた者は2ペナにしたらどうだ”、と怒って提案している。

アマチュアで日本オープン10位

小山ゴルフクラブの桜

小山ゴルフクラブの桜

 伝説は他にも多い。このゴルフコース(クラブ)の歴史は、昭和35年開場以来50年だが、そこに印された人びとの足跡は、恐らく1世紀分に等しいだろう。それらの挿話のいくつかを紹介する。そこはどんな土地だったか。
 視点を変えてみよう。
 昭和12年7月7日、北京郊外盧溝橋で日中戦争が始った日だ。日本のアマチュアゴルフ界では、久保田瑞穂(明治大)と三好徳行(九州帝大)がNo1争いをしていた。先行したのは久保田だった。昭和14年の日本オープンで、総合10位、ベストアマ(ローアマ)となり、「赤星六郎の再来か」と讃えられた。アマチュアの総合10位は、草創期の赤星兄弟を例外とすれば、鍋島直泰の7位(昭和7年)に次ぐ快挙だった。ハンディキャップも+2まで上った。しかし軍隊生活で病を得て、戦後夭折する。ライバル三好は、戦後満州から帰って日本アマ3連勝の記録を残している。瑞穂が生きていれば更に…という声があった。
 小山ゴルフクラブのコースは、昭和35年、瑞穂の父久保田篤次郎経営の農場跡地に造られた。思い川河畔台地に広がるその一帯は、明治時代は官林だった。明治17年には、朝鮮王朝の甲申政変に敗れて、日本に亡命した金玉均が、官林の中の3階建の望楼に匿われている。明治後期に入って、官林を金玉均と親しい須永元が譲受け、須永農場となる。農場というよりも、多彩な植栽をあしらった庭園に近く、「今日のアウトコースに当時の原形を残している」と小川琢磨が『小山ゴルフ場物語』で書いている。
 瑞穂の父篤次郎は、久保田鉄工所創業者・久保田権四郎の養嗣子となり、戦前日産コンツエルン傘下で、経営者のキャリアを積んだ。小山ゴルフクラブが日産自動車、日産会の応援を受けたのはその縁である。
 昭和19年須永農場が久保田農場となり、3階建の望楼は久保田邸となったその直後疎開先の軽井沢から久保田農場に入った瑞穂の妻美代は、「桜の花の中に居る夢のような景色だった」と印象を語っている。

「瑞穂の思い出をゴルフ場に…」

 昭和33年頃から、ゴルフ場が具体化する。久保田農場33万平方メートルをアウトコース、隣接の山林を同じ面積の33万平方メートル買収してインコースとした18ホールだった。父篤次郎はなぜゴルフ場を造ろうとしたか。妻の美代は、
 「亡き瑞穂の思い出の土地を、大好きだったゴルフ場にと思ったのでは…」
 と語っている。
 美代さんは、ゴルフ場オープン後、東京都千代田区内幸町1丁目日産ビルの小山GC東京事務所に勤務、若い頃の筆者もお世話になった記憶がある。
 コース造成は、篤次郎の主宰で行われた。たとえば芝張りは「ゴルフ場経営も農業のひとつ」という哲学から、地元の農婦が横一線に並ぶ田植方式で行われたという。
 開場昭和35年11月3日、開場時は18ホール、6156ヤード・パー73。(現在は6577ヤード・パー72) 設計は間野貞吉。相模CC理事として赤星六郎設計の真髄に触れて設計家に進む。工学博士号をもつ正統派の設計で知られ、小山GCの他戸塚CC、倉敷CC、札幌国際(島松)CCなど32コースの設計、監修コースがある。その上に、小山GCでは篤次郎の意見が入っている。久保田邸庭園(農場)をそのままアウトコースに利用しているのだから、桜、梅、松、竹林、梅林など庭園の景色、ガーデン・スタイルの景観、そして攻めの魅力など篤次郎の影響が残る。さらに安田幸吉は、昭和20年終戦の折、中国から引き揚げた後、小山の久保田農場に身を寄せて心身を癒し、再起を図っている。その縁でコース造成時にプロとしての相談を受けているようだ。安田一人ではない。浅見緑蔵も、軍隊からの復員後、久保田農場を頼っている。その二人が、初代、2代目の日本プロ協会会長として、戦後のプロゴルフ界を育てることになる。
 小山GCのコースは長大でも、際立ってクラシックでもモダンでもない。しかし亡命者金玉均、夭く逝った名手久保田瑞穂、父篤次郎そして安田幸吉、浅見緑蔵、金子良平ら3人のプロ等など、人間劇の多いゴルフクラブとして記憶されていいだろう。

所在地     栃木県小山市大字喜沢1140
コース  18ホール・6577ヤード・パー72
コースレート  70.5
設計者     間野 貞吉
開場日     昭和35年11月3日
コースレコード  アマ 関辰男 69   プロ 山村博 69