第56回 ニュー・セントアンドリュース ゴルフクラブ・ジャパン

 

 

「日本にセントアンドリュースを造る」
  -時代の先を走った浜田善弥の大構想-

ニュー・セントアンドリュース ゴルフクラブ・ジャパン クラブハウス

ニュー・セントアンドリュース ゴルフクラブ・ジャパン       クラブハウス

 英国スコットランドのセント・アンドリュース・オールドコースは、世界のゴルファーにとっての“ホーム・オブ・ゴルフ”である。ゴルフの聖地、世界のゴルファーが、生涯一度は訪れ、プレーしたいと憧れるコースである。
 昭和40年代前期、ある人物が、
 “日本にセントアンドリュース・オールドコースを造る”
 とぶち上げた。粗製乱造の新設ブームに疲れていた日本ゴルフ界はびっくり仰天、嘘だろうと訝る者もいた。怪物「ニューセントアンドリュース ゴルフクラブ・ジャパン(N・S・A・J)」の登場である。しかもそのコースは、もう一つ人気世界最高のプロゴルファー、ジャック・ニクラスの設計処女作という大話題を抱えていた。
 日本にセント・アンドリュース・オールドコースを創るという、日本ゴルフ界の常識を遥かに超えた事業を提起した男は、浜田善弥。霞台CC(茨城県)に一時関係していたがゴルフ業界人ではない。東京大学哲学科出の演劇人である。東京赤坂見附の大十字路を四谷見附方面へ上る三角点の一画、赤坂元町に事務所を構え、そこに浜田善弥劇場をつくり一種の前衛劇を演じていた。 セントアンドリュースゴルフクラブを手本にゴルフ場をつくるのも、一種の文化的なイデオローグ的な仕事だったのかもしれない。ゴルフ場経営とは別のパラダイムの世界を生きている人物だった。
 筆者も、再三赤坂元町の事務所を訪れ取材したが、さらに沖縄、伊豆、福島などにもゴルフ場の構想を持っていて、その構想は壮大、斬新なものだった。
 計画は、栃木県大田原市の山地に18ホールを造成する構想だった。しかし用地は起伏のある丘陵、セントアンドリュースのリンクスとは大違い。交通も、新幹線も東北高速道もなく、東京から車で2時間。魅力は、本場セント・アンドリュースの指導と人気プロジャック・ニクラスの処女設計が中心だった。
 昭和45年募集開始。第1次は200万円粗製乱造の新設ブームの中で、J・ニクラス設計の魅力は大きかった。快調にスタートしたが資金計画が大きすぎ、第1次石油ショックの痛手、最後は東京から2時間という遠距離もあって、昭和50年に開場したものの、昭和52年会員7000名、約100億円の負債を抱えて倒産してしまった。
 しかし会員有志は、会員の東芝常務高瀬正一を中心に、「NSAJをよくする会」を結成、7000名の会員のうち3000名から16億2479万円を集めて、1978年9月、競売にかけられた同コースを20億2000万円で落札、再建に乗り出した。初代社長高瀬正一、2代目長島範明。その長島社長と筆者の再建をめぐる次のような対談が残っている。
 ――浜田善弥は経営に失敗したから“悪名”だけを残した気配があるが
 長島 彼の着想はちょっと桁外れに進んでいた。しかし残念ながら数字というか財務管理に不向きだった。
 ――カネ勘定していたらこのコースはできなかったでしょう。浜田善弥は、時代より1歩も、10歩も早かったというか、時代が彼に追いつけなかった。ゴルフ場だけでなく前衛的な浜田善弥劇場をつくるなど一種の文化的イデオロギーだった。
 長島 彼は、クラブの在り方でも、たとえば、理事を選挙制、任期4年にするなどセントアンドリュースのR&Aに学ぼうとしていました。日本では理事は殆んど名誉職、任期もないですから。(因みにR&Aの理事は、任期1年である。)

帝王J・ニクラスの処女作

ニュー・セントアンドリュース ゴルフクラブ・ジャパン 3番ホール グリーンまわり

ニュー・セントアンドリュース ゴルフクラブ・ジャパン       3番ホール グリーンまわり

 経営失敗したコースを会員の力で競落、再建した例は他にも多い。しかし2500人もの多数が一致団結した例はNSAJに限られる。なぜ大きな会員の団結が生れたのか。
 理由の第1は、やはり帝王J・ニクラスの処女設計という魅力だったろう。ゴルフ理解の深い人ほど、終生のホームコースとしては、天才の戦略性をよろこんだ筈だからだ。
 このコースは、ジャック・ニクラスが、設計会社を設立する前、一人のプロ・プレーヤーだった頃に設計した第1号、処女作だとされている。しかしそう断言するには、些か躊いもある。
 NSAJニューコースの開場は、昭和50年。
 1969年(昭和44年)ニクラスは、ピート・ダイとの共作でハーバー・タウンを設計。以後1974年(昭和49年)までは、ピート・ダイ、D・ミュアヘッドとの共同設計が続く。
 ニクラスの単独設計は、1974年カナダのグレン・アピーが初め。1974年は昭和49年NSAJの開場に先立つこと1年である。
 待て待て、NSAJは2番目か?いや、NSAJは着工から完成まで5年を要している。つまりニクラスの設計図は昭和45年に出来上って、施工段階に入っていた筈である。そう考えると、まぎれもなく処女作である。ニクラスが、コースデザイン・カンパニーを設立する前、プレーヤー・ニクラスの処女作品である。
 なぜ“処女作品検証”にこだわるか。フルタイムの設計者になる前のプレーヤーJ・ニクラスの戦略性を知るための絶好の材料になるからだ。
 NSAJのコースガイドによると、「後にニクラス自身が、少しハードに設計し過ぎたと反省したほどタフなアメリカンスタイル」と紹介している。ニクラスはこのコースを初ラウンドしたとき“43”を叩いたという伝説もある。

「難し過ぎた」とニクラスの嘆き

ニュー・セントアンドリュース ゴルフクラブ・ジャパン 2番ホール

ニュー・セントアンドリュース ゴルフクラブ・ジャパン       2番ホール

 「難し過ぎた」とプレーヤー・ニクラスが嘆息したNSAJニューコースは、どのように攻め難いか。コース全体では、随所にひろがる池、グリーン間際の深くて大きいバンカー(これはアイルランドのインランドを思わせる)グリーンは小さくて固い、その硬さは尋常ではない。アイルランドのものだ。しかも奥行きが浅く横長が多い。横から攻めるつくりだから、正面から攻めると、直前の大バンカーに呑まれるか、間違いなく背後へコロコロである。その代表例が、2番(376ヤード・パー4)である。
 1番(442ヤード・パー4)は、右側に絡む大きな“池の水際戦路”をティからグリーン間際まで伴走させて、横長の細いグリーンを狙うに2打か3打か微妙。インコースはやや趣きが変わる。13番(409ヤード・パー4)は深い奥行のある樹影の中に、アーリーアメリカン風の姿を展開し、16番(375ヤード・パー4)は、スルーザ・グリーンの中央に、三重の滝でつないだ幅広のクリークを縦走させ、“川の水際戦略”を提案しているが、ここに見えるのは13番と対比した、P・ダイ以後のニュー・アメリカンスタイルである。
 このようにこのコースはいろいろな表情を見せ、いろいろな形の難度で挑んでくる。ニクラスが、これほどきびしい戦略を採用したのはなぜか、それはプレーヤー・ニクラスが、プレーヤーとしての絶頂期に設計したからであろう。
 プレーヤー出身でない設計家R・T・ジョーンズ・ジュニアは、ニクラス設計を評して次のように語っている。
 「彼のコースは、自分のゲームに基づいて設計されています。ロングボールを打ち、高く上がるショットで小さなグリーンに乗せなければなりません。それが彼のプレーのやり方ですからです」
 
 会員による再建後のNSAJは、やや離れ地区に、セントアンドリュース・NSAJプロジェクト設計によるオールドコース9ホールを増設。本場オールドコースの雰囲気を偲ぶことができるとしている。またホテルを併設している。
 なお現在は、オリックス・ゴルフ・マネジメントが経営している。
 
所在地      栃木県大田原市福原2002
コース規模   ニューコース18ホール・6718ヤード・パー72
           オールドコース9ホール・3392ヤード・パー36
           コースレート   72.5(ニューコース)
設  計      ニューコース    ジャック・ニクラス
           オールドコース  セントアンドリュース・NSAJ・プロジェクト
開場日      昭和50年5月10日