第77回 太平洋クラブ御殿場コース

 

 

タイガー・ウッズ、バレストロス、T・ワトソンも来場。国際的水準のトーナメントコース 
 

太平洋クラブ御殿場コース 18番ホール

太平洋クラブ御殿場コース 18番ホール

 ゴルフコースは一般的に、メンバーと共歴史を刻むものだ。だが、太平洋クラブ御殿場コースは、プロ競技太平洋マスターズと共に発達成長している。
 御殿場コース開場は、昭和52年4月26日。先立つこと5年、昭和47年に太平洋マスターズは始まっている。47年から51年の第5回大会まで、会場は総武CC総武コースだった。昭和52年の第6回大会から、御殿場コースが会場となる。以来今回で40回、第40大会だった。
 この間に、太平洋マスターズに参加、御殿場コースでプレー優勝、準優勝した国際的な名選手をアトランダムに挙げてみると
ゲイ・ブリユーワー、ジーンー・リトラー、ジェリーペイト・ビルロジャーズ、ギル・モーガン、ダニー・エドワーズ、セベ・バレステレロス、ホセ・マリア、オラサベル、グレッグ・ノーマン、リー・ウエストウッド(3連勝)、バート・ヤンシー、トム・ワトソン、ラリー・ネルソン、バート・ランガー
 平成13年のワールド・カップでは、タイガー・ウッズも来場プレーしている。
 以上の名プレーヤーたちが来場、覇権を争ったことをみれば、御殿場コースが、トーナメントコースとして十分に国際的水準以上の優良コースであることが、納得される。そしてその間に、国際的トーナメントコース水準を目指しての大会主催者太平洋クラブの努力、その中心となった加藤俊輔設計部長の貢献が大きい。主なコース改造を挙げれば、9番と18番ホールの入れ換えに伴う、1、13、14番ホールの改造(新設)とクラブハウスの移転。特に天然芝生のギャラリー席を配した18番グリーン廻りの造りは、後々に多くのドラマを生むことになった。
 次の大改造は、2グリーンの1グリーン化である。いずれの改造にも設計部長加藤俊輔の戦略的主張が中心に仂いていて斬新な姿に生れ変った。
いずれにしろ現在のコースには、昭和52年オープン時の俤は、アウトコースに一部残すだけである。

設計者・加藤俊輔のキャリア
 
 設計者加藤俊輔は、昭和8年東京生れ。日本大学工学部卒業後、熊谷組入社。熊谷組が手がけた多くのゴルフ場造成、建設の実地で設計、造成技術を学んだ。
昭和49年太平洋クラブに移籍設計部長となり、同倶楽部の6コースを設計、昭和60年独立して加藤インターナショナル・デザインを設立、リンクスランドを思わせる“スコットランド憧憬”流のデザインで、昭和50~平成5年にかけてわが国のゴルフコース設計界の寵児となった。その後その設計は、御殿場コース、瀬戸内海GCなど、日本的修景の中に、英国、米国の戦略的コースデザインを導入したトーナメントコースへと移る。生涯設計60コース。平成5年自ら、中心となって、日本ゴルフコース設計者協会を設立、初代会長となる。著作に『A・GOOD GOLF COURSE MERGES INTO NATURES』がある。

17番を越えるまで勝者は決まらない

太平洋クラブ御殿場コース 17番ホール

太平洋クラブ御殿場コース 17番ホール

 筆者は、東京よみうりCC18番ホールを“東京よみうりの小劇場”と表現したことがある。芝生の斜面から見下すパー3だ。しばしば1オン失敗で優勝逆転劇を演じた難ホールだ。
 御殿場コースには“小劇場”がいくつもある。3、4、6、9、14、15、16、17、18番。小々劇場ならもつとある。ドラマが生れる、生れるように設計されているからだ。
 その中から終盤の2ホールを取り上げる。
 17番(228ヤード・パー3)このホールを過ぎなければ勝者は決まらない、といえるホールだ。大池越えの打下しパー3。プロゴルファーにとって大池を越えるのは難しくはないが、グリーン前に2個の深いバンカー、その先に縦に長く、左右に斜面を曳いた姿のグリーンが曲者だ。入口の2つのバンカーがあるため、グリーンの前部分が広く使えない。今年も最終日、前年覇者の松山英樹(アマ)が、ナイスショットを放ちながら、僅か30センチ弱く、入口のラフに落ち、弾みでバンカーに落下、ボギーとなった。初日にもここはボギーである。逆に大きく打つと、グリーンは最終部分が向う下りで、奥へコロコロ。
 優勝した石川遼も最終日、ピン左上のグリーンにオンしたものの入らず寄らずでボギー、2位の松村道央に、1ストローク差に迫られた。
 17番の左グリーンは、滅多に使われないが、今も残されている。設計者が米国のある名門コース18番ホールをイメージしたという姿のいい、難ホールだが、残念ながら、改造前の平凡だった右グリーンに“座”を譲ってしまった。大池に逆さ富士を投影した景色では、右グリーンの位置がピッタリだったからである。やはり御殿場では富士が優先する。
 その17番右グリーンに、設計者は、懸命の努力で、最高の戦略的且つドラマチックな困難を背負わせたのである。

18番ホール・御殿場コースの“小劇場”

18番(517ヤード・パー5)ストレートに400ヤード、左右を疎林に囲まれた、あまり広くないフェアウェイが真っ直ぐ伸びている。最後はグリーン前に150Y超の池がある。池の両側は、芝生のギャラリースタンドである。始めから“小劇場”を予定しての設計だったようだ。
 開場当初の姿では、300ヤード地点左の疎林に近い高所に小さなバンカーが1個だけ、イージーなパー5でバーディー続出、≪大競技らしく、太平洋マスターズの時はパー4にしたらどうだ≫の声が、間もなく起きた。その結果、280ヤード~300ヤード付近に、フェアウェイの70%を占める大バンカーが姿を現わした。あきらかに、2オンを邪魔するためのビッグ・ハザードだが、現在のプロ・ゴルフの水準では、300ヤードは困難な高い壁ではない。今年も、松山が第1日340ヤード、宮里優作  320ヤードと、悠々の300ヤード越えだった。第1日の松山英樹は、第1打を悠々とバンカー越えの340ヤード、残る170ヤードを7番アイアン(?)で高々と打ち上げて、ピン50センチにピタリ寄せてイーグルだった。これからの最終勝者の攻め方は、この松山流になるだろう。
 昨年(2011年)の最終日、松山が放った第2打は、もっとドラマチックだった。前に打った選手が約2メートルに2オン、つぎに松山が、ピタリ50センチに寄せて優勝、しかもアマチュア優勝だ。“小劇場”の観客が待ちに待っていたヒロイックな瞬間だ。御殿場コース始まって以来の万雷拍手だった。
 こんなドラマもある。同じ今大会第1日目の18番ホールで斐相文(韓国)が第2打を池に入れ、第2打を打つため靴、靴下を脱ぎ始めたら、小劇場席から一斉に拍手が起った。アレは、スポーツとしての共感だったろうか。
 18番ホールでは、数年前の改造で、左の斜面とグリーンとの間のへこみが埋められてエプロン状にグリーンとつながった。エプロンとは花道のように、グリーンと同じ下構造、同じ芝、同じ芝高でグリーン前を整えることだ。最終日、2位となった松村道央が、第2打を左斜面から廻してグリーンに乗せたが、アレはエプロンを利用した妙技である。池に落したが、最終日松山英樹が、右ラフの松の間から打った第2打も、直にグリーンを狙えないショットを、左エプロン廻しでオングリーンを狙ったものと推察できる。設計者のかくれた改造、手柄である。
 517ヤード・パー5の最終ホールは、今の時代には、いかにも短い。ゴルフは18ホール単位、1ラウンド、4ラウンド単位で争うもの、最終ホールで一発逆転するのは、見た目にはおもしろいが、スポーツとしてフェアではない、という批判は無視できない。もう一段と大きいスケールの18ホールとするため、どう解決するか、経営者と設計者に期待される課題かもしれない。

所在地     静岡県御殿場市板妻941-1
コース規模   18ホール・7246ヤード・パー72
コースレート  73.9
設計者     加藤俊輔
開場年月日  昭和52年4月26日
ベスト記録   プロ・室田淳 62