第83回 札幌国際カントリークラブ
“島松”の風物詩キタキツネ
筆者の“島松の思い出”は、キタキツネに始まる。
どうして札幌国際CC島松ゴルフ場に行くようになったか、最初の契機は、今やはっきりしない。まだ若いヒラのゴルフ記者だった頃、昭和50年から平成10年まで続いた札幌とうきゅうオープン取材に出張した、それがきっかけだったか。昭和が終ろうとする頃には、北海道へ行けば札幌GC輪厚と島松Gを往復ビンタでプレーするのが習慣になっていた。
まだコースによく馴れないある年のことだ。例年のように島松でプレーした。Aコース3番ホール(531ヤード・パー5)をプレーした時だ。そのホールは、小さな谷越えのストレートなやや打上げ、フェアウェイは広々としている。思いきった豪打を試みたくなるホールだ。ふと気づくとフェアウェイの中央に、2、3頭の動物が動いた。どうやらフェアウェイいっぱいの陽を浴びて、一服か。
それがまるで、“どうだい、ここまで飛ばせるかい”と、筆者たちをけしかけているかのようだった。小憎たらしい。それがキタキツネの初見参だった。
この野郎と思ってドライバーを振る。しかし彼らの姿には、まだ遠い。キタキツネどもが、ここまでおいでと腹を叩いて笑っている風情に見えたものだ。
パー3のティグラウンドには、茶屋がある。前の組のホールアウトを待つプレーヤーで、忽ち満員。それを狙ってキタキツネが集る。客たちは、時間つぶしに餌を与える。「餌は与えないで下さい」の立札も効果ナシ。
「餌に馴れると、キタキツネは餌の獲り方探し方を忘れます。そして冬には、養鶏場や養豚場を襲い、豚の横ッ腹に穴を明けるのです」
という地元キャディの制止もどこ吹く風。
キタキツネは、“島松”になくてはならぬ風物詩だった。今はどうか。
クラーク碑のある町
島松(シュマオマップ)の由来
今もそうだろうか。殆んどのゴルファーが札幌国際CCといわず、短く「島松」と言った。東京のゴルファーも、そう言った。北海道の島松でなく日本の島松だったと、会報『北海道の島松』は書いている。
島松(しままつ)は、アイヌ語でシュマオマップともシママップともいい、「シュマ」は石、「オマ」は在る、「プ」は物、“石のある川”という意味らしい(25年史による)北海道開拓者・松浦武四郎「西蝦夷日記」では、「シュママップへッ(この全ての平盤なる地)」と訳しているそうだ。
因みに明治10年札幌農学校(現、北海道大学)教頭職を離れ米国へ帰るW・S・クラーク博士が、別れを惜しむ学生たちに、「青年よ、大志を抱け」という金言を残して旅立った場所が、月寒村島松である。ゴルフコースに近い旧道沿いに、今は、クラーク碑が残っている。
なお、胆振(いぶり)、石狩の国境の島松川流域は、寒冷地稲作の発祥地として有名。明治26年広島開墾地に、大曲、島松が加わって広島村が生れ、さらに広島町、現在の北広島市と発展している。
島松ゴルフ場が生れる頃の所在地の地名は、北海道札幌郡広島村字島松である。
広島村にゴルフ場が誕生するのは、戦後の昭和33年8月の札幌ゴルフ倶楽部輪厚コースまで待たねばならない。それまでの北海道ゴルフ事情は、小樽、函館の開港都市に握られていた。ゴルフは海から渡来する輸入文化、行政の中心札幌でさえ後発だったのである。
しかし札幌中心に、ゴルフ需要は膨れていたようだ。輪厚は開場したが、井上誠一設計の18ホールは、いわば北海道の霞ヶ関CCである。上流階級中心で、コースも難しい。3年経った頃、後に島松の初代理事長となる、大野精七が洩らした一言、「9ホールでいいから、年寄りだけの楽しいコースを作ろうじゃないか」という言葉がきっかけになった。
昭和36年9月株式会社島松ゴルフ場(代表取締役佐藤貢) 札幌国際カントリークラブ(理事長大野精七)設立。輪厚は、知事を筆頭に有力者多数を網羅した社団法人制だったが、島松は、自分たちの力で出来ると、会員権(個人15万円、法人25万円)十株券5万円で第1回300名を集めたが、忽ち3倍する応募があった。因みに同クラブは12回会員募集をしているが、1回も広告募集(一般募集)はなく満員、島松の自慢である。北海道内では、株式会社制ゴルフクラブ第1号でもある。
美しく、雄大な最初の18ホール開場
最初の予定地は、大曲の薬草園に注目したが、北海道を日本の食糧基地にするという国策上、農地のゴルフ場転用は不可とされて断念。起伏の多い島松の31万余坪の現在地に落着き、設計、久米建築・菅谷直、施工大成建設で建設に着手。請負代金16億5000万円。
昭和38年8月1日、9ホールで仮オープン。翌39年4月29日「樹海の中に象嵌(ぞうがん)されたような18ホール」(大野精七理事長の表現)・6800ヤード・パー72が完成した。
開場後、あまりにも地形なりにつくられてアップダウンが大きく、狭い展開に、口の悪いゴルファーの間では、資金が少ないのでブルドーザを使わなかったなどの批評もあったが、設計した久米建築事務所菅谷直の設計術そのものが、自然ながらの地形、植生を生かし、“美しく、雄大に”を哲学としている人物で、島松の天然の素材と菅谷の設計哲学がピタリと合った18ホールだといえよう。その美質は、昭和50年から平成10年の24年間にわたって行われたプロ競技とうきゅうオープンの成功によって証明されている。
樹海のような深い樹林がコース全体を蔽い、ホール間の歩経路の両側には、111種類の樹木それぞれに和名とアイヌ語の名称を併記し標識した樹々が林立している。まるで観光植物園のような雰囲気があった。それは日本の他のどこのコースにもない魅力だった。
まさに“樹海に象嵌された18ホールズ”だった。
因みに設計の菅谷直は、建築学畑出の変り種、久米建築事務所常務、顧問、コース設計は殆んど久米建築名で仕事しているが、個人または久米建築との共作は、釧路、稚内など主として北海道に多く12コース。内地では岡部チサン岡部コースがある。
昭和46年8月1日、増設Cコース9ホール・3171ヤード・パー36を開場。設計は間野貞吉。
所在地 北海道北広島市島松49-5
コース規模 (A)3532Y・P36
(B)3323Y・P36
(C)3412Y・P36
コースレート AB・72.7、 BC・72.0、 AC・73.0
設計者 A、Bコース 久米建築事務所 菅谷直。Cコース 間野貞吉
開場年月日 昭和38年8月1日
経営 株式会社島松ゴルフ場