第23回 我孫子ゴルフ倶楽部

 

 

名門誕生・二つの伝説

我孫子GC 18番グリーン

我孫子GC 18番グリーン

 名コース、名門ゴルフ倶楽部の「我孫子ゴルフ倶楽部」の歴史は積み重ねられて80年、どのようにつくられてきたのだろうか。
 我孫子という土地の発祥は古い。大昔は、あぢことも、あちこくとも言い、安孫子、阿孫子とも書いたそうだ。江戸時代は、水戸街道と成田街道の接点、水戸藩の本陣、成田山新勝寺参詣の宿場町として栄えた。大正末期から昭和初期には、利根川と手賀沼に囲まれた一帯を“北の鎌倉”と称して、寓居を構える文化人たちが集まっていた。志賀直哉、武者小路実篤など白樺派の文人、朝日新聞の杉村楚人冠、柔道の嘉納治五郎まで、外国人では陶芸家のバーナード・リーチなど。だが産業がない、農村部の疲弊が大きい、悩む32歳の青年町長染谷正治に、「ゴルフ場を造ったらどうだ。」と杉村が、東京ゴルフ倶楽部の中心的人物森村市左衛門を紹介した。森村は、当時ゴルフ倶楽部経営に熱心な意欲をもっていた東京GC会員加藤良を紹介する。さらに、加藤は、同じ東京GC会員で、すでに第一回日本オープンで、プロを10ストローク差で押さえて優勝、絶対的人気の赤星六郎にコース設計を依頼する、という人間関係の中で、計画は、東京GCのバックアップの中で進行する。
 今も残る「我孫子ゴルフリンクス平面図」の欄外には、「本設計ハ、赤星四郎、六郎両氏が、巧ミニ地形ヲ利用シテ・・・」と注釈がある。現地を見た赤星六郎は、手賀沼と利根川に面した絶好な舌状台地と、その中にいくつかの谷地(地溝)がある地形を気に入って、「従来の無難なコース設計から、大胆な、芸術的な設計者の個性を発揮したコースがある筈だと感じた」という感想を残して、設計を快諾している。谷地とは、現在のコースでみると、2、3番、6、7番、10、11、12、13番ホールに見られる大きなハロー(地溝)のことで、自然の変化をそのままコースの戦略性として導入できることが、赤星六郎の心を捉えたようだ。
 (因みに、赤星六郎のコース設計には、随時兄四郎の参考意見が加わり、さらに工事現場では、狩野三郎技師が主に働いている。狩野は、川奈ホテル・富士コースを六郎が設計したときのパートナー。残念ながら六郎の富士コースは、60%でき上がった時点で、アリソンの現・富士コースと取り換えられ姿を消している)
 我孫子GCには、もう一つの伝説がある。
創業者加藤良は、一年に365回ゴルフをプレーする男といわれた程の熱心なゴルファー。
東京GC駒沢コースでのゴルフ仲間の一人に、後に小金井CCを創建する深川喜一がいた。2人は、駒沢コースが、華族、財閥を中心として運営されていることに反発、「もっと誰れでもが楽しめるクラブライフ」をつくろうと機会を窺っていた。加藤が我孫子GC、深川が小金井CCを、誰れもが加入できる株式会員方式で創建したのは、その趣旨である、というもう一つの伝説がある。
 昭和5年10月5日、インコース開場、昭和6年10月18日、最初のコース18ホール・6503ヤード・パー71が本開場、小さくて固く背を丸めた1グリーンだった。バンカーに入れたらグリーン上にボールを止めるのは難しく、“我孫子のグリーンは難しい”と有名になった。しかし我孫子のアマの名手もプロも、絶妙のコック・コントロールで、ピタリとピンに寄せた。

“赤星六郎古典”の攻め方

我孫子GC 7番グリーン

我孫子GC 7番グリーン

 現在の我孫子GCのコースには、昭和5年開場当時の“赤星古典”の原型は、それほど色濃くは残ってはいない。深いバンカーから亀の甲のようなに小さな丸いグリーンへ向かって乗せるバンカーショットの難所は、殆んどない。2グリーン化、ベントグリーン化といった近代化への数次の改造で、グリーンがやや大型化し、さらにサンドベース構造になったことで、グリーン面も、昔を知る者には、ややフラットに変っている。
 我孫子コースを攻めるときの面白さ、難しさは、たとえば、10、11番を横切り、12番ホールそのものを形づくっている谷地(大きな地溝、攻めるときのグラスハローのへこみ)をどう解釈し、どう攻略するかにある。
 その代表例は、6番(507ヤード・パー5)の第2打で幅60メートル、深さ9メートルの谷地を越える場面である。
 第1打で飛ばしすぎると谷に落ちてグリーンが見渡せなくなるし、第1打をへこみ前のどの距離、フェアウエイの右か、左か、ランディングポイントのアキュラシー(精度)の争いとなる。
 7番(224ヤード・パー3)は、6番ホール第2打の折り返しである。女性、男性アマならドライバーになることも。見える地点に置いて2オンがいいかもしれない。
プレー上注意したいのは、10番(498ヤード・パー5)と折り返し11番(405ヤード・パー4)を横断する谷地(グラス・ハロー)である。二つの谷地は同じ一本のもの、10番第1打で越えた谷地が、11番では、グリーン前の谷地、グリーンを狙うために越えるグラスハローとなる。したがって、クランクシャフト状に屈曲している10番ホールを1、2打とプレーしながら、左隣の11番の展開を探偵しておくことが肝要になる。特に11番ホール、第2打の距離、グリーンの傾斜の読み込みが大切である。
 我孫子のバンカーは深いと恐れられている。アリソンのバンカーほど深くはない。赤星六郎は、自分のパー3について80パーセントの精度で征服できると言っている。だからパー3では、グリーン中央を狙えとも言っている。従って小さいグリーンで十分、いうことらしい。
“赤星古典”をそう考えて、今の我孫子コースを攻めてみたらどうか。

新しい名門へ、意欲的な姿勢

 戦時中日本のゴルフ場の大半は、軍に接収され荒廃する。我孫子GCも例外ではない。13番パー3は防空陣地となり、全コースは海軍経理学校に貸与される。この混乱の中で、原設計のコースは姿を失い、昭和26年井上誠一による改造設計で2グリーンとなる。昭和61年サブ・グリーンはベント化、平成6年には、大久保昌改造で、本グリーンもサンド構造のベントグリーンとなり、“背を丸めた小さなアビコグリーン”は姿を遠去けてゆく。
 我孫子GCの幸運は、戦後米軍の接収を免れたことだ。昭和21年10月7日には、ガタルカナル島から復員した山本増二郎プロ(後に日本プロ協会会長)が、プロ室入口に関東プロ協会の標札をかけた。会員18名、月例優勝は米1俵、豚1頭だった。林由郎も戻り、彼の兵隊踊りは、ひとしきりゴルフ界を賑やかにした。昭和24年戦後初の日本プロ選手権は我孫子で行われ、林由郎が優勝。
 最近の我孫子GCは、“新しい名門”へ改革の先頭を走ろうとしているようだ。『倶楽部75年史』で、100年までに1グリーン化を約束したり、名門の変な衿持にこだわらず、日本シニアオープン、日本女子オープンなど“準メジャー”にコースを開放、一方では、『ロクロー・アカボシ・アーカイブス』の発行など、文化活動も目立っていて、注目される。
所在地 : 千葉県我孫子市岡発戸1110
開場日 : 昭和5年10月5日
コース : 18ホール、6778ヤード・パー72、レート72.3
設 計 : 赤星六郎  
コースレコード アマ 小川晃弘 70 プロ 陳志明  66