第51回 小野ゴルフ倶楽部

 

 

廣野ゴルフ倶楽部に育てられ

 「日本一のゴルフ場はどこか」と問われたら、少しでもゴルフ知識のある人なら、その90%が、廣野ゴルフ倶楽部と答えるだろう。小野ゴルフ倶楽部は、廣野GCのシスター(姉妹)コースである。 
 平成17年4月18日、筆者は廣野GCをプレー、翌19日小野GCで1ラウンドした。廣野から小野まで殆んど直線、車で50分である。

廣野の分家か姉妹コースか

小野ゴルフ倶楽部 17番ホール 谷(池)越えのパー3

小野ゴルフ倶楽部 17番ホール 谷(池)越えのパー3

 昭和34年頃、兵庫県のほぼ中央部に位置する小野市は、ソロバンの生産量日本一ともう一つ5000羽の鴨が飛来する13万坪の鴨池だけが自慢の、特徴の少ない過疎都市だった。
 その頃になるとゴルフ先進県兵庫県では、ゴルフ場を誘致しての地域振興が流行し始めていた。小野市長は、鴨池を中心にゴルフ場を誘致して、過疎地からの振興を図ろうと計画、兵庫県庁に相談を持ち込んだ。兵庫県は、その話を、廣野GCの乾豊彦理事長に打診した。戦時中川崎重工明石飛行場の代替滑走路、同社農場として接収されていた廣野GCのコースを、昭和24年までに、見事アリソン設計の原形に復活してみせた若き廣野GC理事長乾豊彦の手腕に期待したのである。 
 乾は、申し出を再三辞退したようだが、一旦引き受けると、まるで廣野GCの姉妹コース、いや第2コースを建設するかのように、資金、労務面でも全面支援して、昭和36年1月、鴨池をめぐる25万坪に着工した。設計は上田治。上田は、京大在学中から、建設中の廣野GCでアリソン、伊藤長蔵に従って現場で働き、アリソンの技術を熟知。戦中、戦後を廣野GC支配人として働き、戦後は乾の下で廣野GC再建に貢献していた。昭和29年に退職、設計家として独立して“東の井上誠一、西の上田治”と並称される人気があった。生粋の廣野GC育ちである。
 着工して1年も経たず、昭和36年11月3日18ホール・6880ヤード・パー72が完成する。
 乾豊彦の、小野GCに対する扱いは、姉妹コースというより親と子に近い。建設に資金、人手を廻したばかりか、完成すると乾自身が長い間理事長を廣野GCと兼任、支配人も初代、2代と廣野GC出身者が続いている。因みに現在の廣野GC支配人黒本洋一氏は、前任は小野GC支配人だった。
 会員にも、廣野GCと二つ重なっている人が多い。創業時の初回募集で、一般からの入会25万円に対して廣野GC会員は20万円とサービスした伝統があるからだ。
 結論すれば、姉妹コースというより分家に近い。

上田治設計の秀作

小野ゴルフ倶楽部 9番ホール ホップステップジャンプの愛称がある。右は鴨池。

小野ゴルフ倶楽部 9番ホール ホップステップジャンプの愛称がある。右は鴨池。

 コース展開は、アウト9ホールが鴨池をめぐり、イン9ホールはややヒーリーながらもフェアウェイの両側を背の高い林立に守られた林間調。アウトは繊細な戦略性、インは飛距離を求められるホールが中心となる。
 アウトでは、鴨池を越える7、8、9番ホールが鍵となる。特に9番(540ヤード・パー5)は、ホップ・ステップ・ジャンプのニックネームがあるように、クラブハウスへ向って打つ第3打池越えの成功、失敗がスコアを左右する。即ち、1打池越え、2打が計算通り打てないと、4打目、5打目の池越え、あるいは200ヤード近い池越え第3打となるから、このホールは、心して正確にプレーしたい。
 インコースでは、10番(375ヤード・パー4)の第1打落下点の近くに、フェアウェイにせり出した大きなクロスバンカーがある。廣野GCの2番ホール第1打の塹壕型クロスバンカーを連想したりしたが、小野GCをよく識る黒本廣野GC支配人によると、「皆様よく飛ぶようになって、殆んどの人が悠々と飛び越えます」ということだった。しかし設計美学上はやっぱり、あの位置に欲しいトラップだ。
 インコースでは、13番(470ヤード・パー4)が、森に包まれたロンゲスト・ミドルで、ホールハンディNo1である。正確に大きく飛ばそう、フェアウェイは広い。
 廣野GCは名作である。「名作とは力を揮うのではなく、力を抑えた作品である」(仏国の文明批評家サント・ブーヴ)との言葉がある。廣野GCのコースは厳しい、それでいてやり過ぎがない。名作である。対して小野GCには、約20ヤードを打上げる15番(375ヤード・パー4)、約20メートルを打下してゆく第1打の16番(530ヤード・パー5)の型破りな展開、そして米国のパインバレーやメリオンのラフリバーを模倣した景色など、廣野GCにはない自在な楽しみ方、次男坊らしいやり過ぎもあって、それが小野GCの長所の一つであろう。
 小野GCのクラブハウスはまるで「町家」である。露路の階段を2、3段上ると入口である。クラブハウスに贅沢は要らぬ、という乾初代理事長の意見で生れた質素な佇いの建物である。クラブハウスからアウト・インのスタートまでの距離が全く同じ、乾理事長と設計者上田治が、実際に歩いて測ったといわれている。

それはさておき[閑話休題]

 本家筋の廣野GC側の希望は、「廣野GCは名コースだが、平均的メンバーには難しすぎる。小野GCは、良いスコアで楽しく廻れるコースにしよう」という狙いだったらしい。設計の上田治も、ブルドーザを入れて平坦なコースを造る計画で始めたが、乾理事長が原地形にゾッコン、自然を生かそうと主張、しだいに難ホールが増えて、「ひとつ狂えばすぐ50」のコースになってしまった、と『二十年史の歩み』(座談会)に泣き言が出ていて、乾氏が謝っている。
 
昭和44年 日本オープン開催 優勝 杉本英世 284、 2位 内田繁 285
                    ベストアマ 入江勉 293 (総合16位)

所在地  兵庫県小野市来住町1225
コース規模  18ホール・6925ヤード・パー72
          コースレート 73.9
設 計 者 上田 治
開場月日  昭和36年11月3日
コースレコード  プロ  杉本英世  67  (昭和44年日本オープン優勝の時)
           アマ  美永正則  67