第32回 武蔵カントリークラブ 豊岡コース

 

 

豊岡コース、戦前の姿は…

武蔵カントリークラブ 豊岡コース:18番ホールと1階建クラブハウス

武蔵カントリークラブ 豊岡コース:18番ホールと1階建クラブハウス

 武蔵カントリー倶楽部豊岡コースの正門前を、米軍横田基地側から入間、川越方面へ20メートル幅員で通過する国道16号線は、その昔、陸軍飛行場の滑走路だった、といえば、奇異に思う人が多いだろう。だが、それは、事実である。武蔵CC創業以来の社員で後に支配人となった八木一郎氏は、会報『武蔵』(第536号)に書きつけている。
 「戦時中、現在の自衛隊入間基地には豊岡陸軍航空士官学校があった。そして、今豊岡コースと狭山ゴルフとの間に広がる武蔵工業用地は士官学校付属の飛行場だった。ここで学生達が黄色い複葉練習機での離着陸訓練や、高い鉄塔からの落下傘降下訓練などをしていたが…(中略)
 もともと、十六号の旧道は八王子街道と呼ばれ、飛行場の中を通っていたのだが、戦争の激化に伴い、緊急発着用の滑走路を兼ねて、新しい道路をその外側に造った。これが現在の十六号である」

名門ゴルフ倶楽部(コース)への期待

 昭和20年8月15日の敗戦から12年、昭和30年代の16号線沿いの、その練習飛行場跡は、武蔵野のどこにもある赤松と広葉樹の雑木の平地林の姿に戻っていた。そこに最初に「武蔵GC建設」の看板を立てたのは、日本ゴルフ場建設(高橋修一社長)だった。看板には施工大木建設、設計安田幸吉と載っていた。同社は、東京八重洲のマツダゴルフ(松田久一社長)を中心に、小寺酉二(JGA専務理事)、安田幸吉(プロ協会々長)、三好徳行(設計家)など当時のゴルフ界エリートが集ったシンクタンクだった。
 しかし、この企画は、金融不況の煽りで挫折、地元当局の依頼で、大木建設(大木貞助社長)が建設を肩代わりすることになる。
 昭和33年4月21日(株)武蔵カントリー倶楽部設立、会長 高石真五郎、社長 大木貞助。
 ついで昭和34年4月30日、無人格社団武蔵カントリークラブが結成された。理事長 高石真五郎(相模原GC、大箱根CC、千葉CC、小金井CC各理事長)、常任理事・大木貞助、理事・石井光次郎(内閣副総理、JGA会長)、野村駿吉(東京GC理事長、JGA副会長)、佐藤喜一郎(三井銀行社長)、野間省一(講談社社長)、渡辺忠雄(三和銀行頭取)などが発起人即理事として名を並べた。政財界のトップエンドたちを大集合した顔ぶれは、ゴルフ界に大反響を起し、33年5月6日から始めた第1次正会員募集は、出資金30万円で300名の計画が、忽ちにして580名に達し、全員を入会承認する騒ぎとなった。政財界のトップグループを理事長、理事に揃えた一種の威容は、武蔵CCを、名門クラブとして生れるべくして生れた“新しい名門”と思わせるものがあった。

井上誠一畢生の名コース

その頃のゴルフ界には、一流コースの条件として、コース設計は井上誠一、クラブ設計はレイモンド設計事務所の二つが言われていた。
 豊岡コースのコース設計は、当初日本ゴルフ場建設による計画で進みかけていたので、安田幸吉設計図ができ上っていたが、「最善を尽くす意味で、斯界の第一人者井上誠一氏に依頼して根本的にやり直すこと、ノータッチプレーが可能になるまでオープンしないこと」などを第1回理事会で決定するという形で(八木一郎氏の文章による)、はっきりと井上設計と取り代えている。八木氏によると、安田設計では、クラブハウスは7番ホール付近、スタートは現在の8番ホールで、現9番の位置が2番ホールになっていたそうである。
 レイモンド設計によるクラブハウスも好評で、ある時期、戦争で姿を消した東京GC朝霞コースのクラブハウスと似ているという噂が立ったこともあったそうだ。そのクラブハウスも、平成21年の3回目の日本オープン開催を前にした平成18年9月、1階建ての新しいクラブハウスに生れ変った。クラブハウスを一歩踏み出せばそこはすでにスルーザ・グリーンという趣向で、横により広くひろがった建物は、威厳よりもホスピタリティの豊かさを連想させて、人気がある。
 昭和34年には、春と秋約6ヶ月を隔てて、豊岡コースと笹井コースが開場する。
 昭和34年7月12日、豊岡コース18ホール・6838ヤード・パー72、設計井上誠一。
 昭和34年11月22日、笹井コース18ホール・6980ヤード・パー72。基本設計井上誠一、詳細設計和泉一介。
 の2コースである。豊岡に比べれば笹井コースにやや地表の変化があるが、ともにほとんど平坦な林間コースである。根本的な違いは、豊岡コースが、100%手造りの人海戦術で造られたのに対し、笹井コースは、ブルドーザーなど重機類を動員して造られた点であろう。豊岡コースは、高低差が少ない地形のため、高低差のある手造りのマウンドをつくりそこに深いバンカーを掘るなどの造形的な戦略性が多くしかけられた。さらに、グリーンは小さく砲台型が多く、バンカーは、最初110個だった。オーガスタ・ナショナルの3倍以上だ。対して笹井コースは、グリーンはエレーベートアップが殆どなくやや広い。バンカー数も83個と、豊岡コースに比べ27個所少ない。

武蔵カントリークラブ 豊岡コース:戦略的に三重に配置されたフェアウェイバンカー

武蔵カントリークラブ 豊岡コース:戦略的に三重に配置されたフェアウェイバンカー

 豊岡コースのバンカーは、開場式に招かれた他倶楽部の理事長が思わず「ゴルフコースとはバンカーのことと見つけたり」と驚きの声を上げたというエピソードが残るほどで、”豊岡のバンカー”は一躍、難コースの代名詞として喧伝された。特に難物バンカーとして知られていたのが、17番グリーンの左右に構えたガードバンカーだ。勝利を目前に右グリーンバンカーからの脱出に失敗、33も叩いた人、左バンカーで12叩いた告白記録も残っている。(但し、開場当時の17番グリーンバンカーの深さは、現在の2倍以上だったそうである)
 では、井上誠一は、プレーヤーいじめで110個ものバンカーを掘ったのだろうか。
 豊岡コースは、本格的な2グリーンだ。つまり左右のグリーンが平等の戦略性をもっている。しかし井上誠一は、哲学的には1グリーン主義である。そこで2グリーンの場合、それぞれのグリーンが個有のターゲットラインを持つように設計される。それぞれに、ガードバンカーを伴い、フェアウエイバンカーを構える。だからバンカー数は平均タイプの2倍になる。さらに距離が短いホールでは、たとえば2番(334ヤード・パー4)は12個、3番(159ヤード・パー3)は、2段構えのダブルバンカーなど8個(その後6個に改造)とサンドトラップが多くなるのである。
 昭和45年笹井コース・橘田光弘、昭和57年豊岡コース・矢部 昭、平成21年豊岡コース・小田龍一、武蔵CCは、2つのコースで3回日本オープンを開催、3人のチャンピオンを誕生させている。前2者は技巧派、小田プロは長打の人。豊岡コースの難しいバンカー、グリーンと現代の飛びすぎるゴルフとの、戦略的対抗はまだまだ続く。

武蔵CC豊岡コース
所在地  埼玉県入間市小谷田961
コース  18ホール・6838ヤード・パー72
コースレート  72.1
設計  井上 誠一
コースレコード  アマ 浅川 辰彦 64、プロ 菊地 勝司 67