第5回 軽井沢ゴルフ倶楽部

英人宣教師の軽井沢発見

浅間山を遠望する14番パー5

浅間山を遠望する14番パー5

 「メンバーによる、メンバーのための、メンバーのゴルフクラブ」、つまり会員制ゴルフ倶楽部として最も理想的な倶楽部は、どこだと思いますか。廣野ゴルフ倶楽部だろうか、東京ゴルフ倶楽部だろうか、いろんな評価があると思うが、ゴルフ理解の人の90%は、軽井沢ゴルフ倶楽部を挙げる筈である。倶楽部の歴史を辿れば、はっきりする。
同倶楽部は、昭和7年、旧軽井沢離山の旧コース(9ホール)から、南ヶ丘の現在地に18ホールの新コースを造って移転しているが(詳しくは後述)、その際、昭和7年8月2日付で、軽井沢ゴルフ倶楽部規則を定めている。その第2條目的の条項の後段に、「会員ノゴルフ練習ニ供シ兼テ其ノ親睦ヲ図ルを目的トス」と規定している。倶楽部の目的が、「競技」ではなく「練習」という例は日本中でも恐らく他にないだろう。先々代理事長白洲次郎氏は、会員同士の競技をやりたければ平日にしろ、日曜は家族の懇親ゴルフだという方針だったという。この倶楽部は、社団法人でも株式会社でもない、同好の士が集まった任意団体だ。専属プロもいなければプロのためのフルバックティもない。日本有数の名門、歴史をもつのに日本ゴルフ協会にも加盟していない。
全く自由、そしてメンバーのためだけがゆるぎないこの倶楽部のプリンシプル(原則)である。プライベートな会員制倶楽部の理想に一番近いことは確実である。

旧軽井沢の9ホール誕生

軽井沢は誰でも知っているリゾート地である。ここに初めて別荘が造られたのは、明治21年慶応義塾でキリスト教倫理学を教えていた英国聖教会司祭アレキサンダー・C・ショウが旧軽井沢の大岡山に造った簡素な山小屋が第1号。その関連で多くの宣教師(教会が5つできた)、外国人が入ってきた。さらに明治26年に碓氷新鉄道が開通してからは、東京からの別荘族が急増した。
大正8年、内外人の軽井沢族の間に、ゴルフ場を、という気運が盛り上がる。8月11日、軽井沢ゴルフ倶楽部(会長徳川慶久、副会長G・N・モギー)を設立。大正9年10月旧軽井沢地区離山に、野沢組が別荘分譲していた土地6万坪を借りて着工、設計は英国人プロ、トム・ニコル。ここにティ、あそこにグリーンと旗を立てる簡単設計だったようだ。フェアウェイは野芝、グリーンはサンド(砂)の9ホール、3477ヤード・パー36が完成したのは大正11年夏。募集案内は英文、役員は日本人8名、外国人9名だった。(これが鹿島建設グループが持つ現在の旧軽井沢ゴルフクラブである、経営主体は、次のように移転した。)

旧軽から新軽へ

右ドッグレッグの難ホール11番パー4

右ドッグレッグの難ホール11番パー4

 年号が昭和に変わった。コースも10年経った。「18ホールが欲しい。旧軽は狭い」という声が圧倒的になる。借地ではなく自分の土地に18ホールを、という希望も大きかった。
昭和4年9月5日、軽井沢町成沢地区南ヶ丘に46万坪が売りに出たのを契機に、新ゴルフリンクス建設の発起人会を結成(徳川圀順、近衛文麿など8名)、昭和5年3月コース移転と新ゴルフリンクス建設が決まる。
事業計画は、買収した46万坪を、別荘区域とゴルフ場区域に2分し、別荘を売却した収入を土地代及びゴルフ場建設費とし、それを軽井沢ゴルフ倶楽部に寄付するというものだった。
注目すべきは、(1)利益を生ずれば之をクラブに寄付し、(2)万一欠損を生ずれば、小数の有志会員(発起人8名が中心)が之を補い、一般会員には絶対に迷惑をかけない、としている点に、一般の会員制倶楽部とは違う志の高さがある。わが国では殆んど見られなくなったプライベートクラブらしい貴族性とでもいえようか。昭和5年度のメンバーリストをみると、会員193名の内訳は、皇族(名誉会員)12名、華族30名(細川・近衛・鍋島・徳川の大名はいずれも複数)、三井一族5名、三菱は岩崎小弥太1名、ゴルフの赤星家は4名、但し、四郎、六郎の名はない。鳩山家は秀夫、千代、一郎。殆んどが東京ゴルフ倶楽部会員、程ヶ谷CCが若干名。外国人は37名。
日本の戦前の階級社会のハイエンドクラスを集めたエクスクルーシブ(閉鎖性の強い)なクラブだった。しかし戦後は、川口松太郎、吉川英治から水上勉まで作家たちの入会が続き、倶楽部にはオープンマインドの雰囲気が出てきた。昭和27年コースが米軍から返還された後205名を募集、入会させたことが影響したようだ。

南ヶ丘の“新軽”ゴルフリンクス

南ヶ丘46万坪のうち周辺部20万坪が別荘として販売され、中心部に18ホール、6573ヤード・パー71のコースが揃うのは、昭和7年頃である。設計は、8人の発起人の1人小寺酉ニ。明治39年岐阜県大垣生まれ、慶応大、プリンストン大学出、戦前からアマチュアで活躍、昭和9年の日本アマ決勝で赤星四郎に惜敗している。戦後、相模CC相模原GC理事長、その後日本ゴルフ協会再建の中心で活躍、同時にコース設計では、1グリーン正統主義を貫き、相模原GC、狭山GCでは、ベントと高麗芝の巨大なコンビネーション1グリーンを造って、ゴルフ界の話題をさらった。小寺の死後、両コースとも2グリーンに分割されて姿を消すが、標高950メートルの軽井沢GCコースは、ベント芝の最適環境で、今も1グリーンを維持している。小寺酉ニ設計の文句なしの代表作である。
設計の小寺は(1)自然のアンジュレーションを残す。(2)浅間山をポイントに、サマーリゾートらしい景色を残す。(3)チャンピオンシップは抜きに、楽しく面白くと、設計テーマを語っている。印象的なホールを、小寺自身の解説を元に紹介する。
3番(214ヤード・パー3)正面に浅間山が美しい。ヤーデージが長いのでグリーン
も縦長に大きい。グリーン前20ヤードのクロスバンカーを超えると、トントンとグリーンにころがってオンできる。
5番(416ヤード・パー4)全体にだらだら上りの真っ直ぐで広いホール。オンしてからが難しい。奥が平らで手前が下がる凸凹のグリーンで3パットの危険。
9番(480ヤード・パー5)8番に続くパー5。ティから右前方に浅間山が雄大だ。短いだけに、グリーンは中央部を高くして、ボールが中央に集まるのを防いだ。
11番(392ヤード・パー4)右ドッグレッグでグリーンは砲台型で高くなっている。右200ヤードのバンカーをかすめて、第1打をコントロールできるかがカギ。
18番(492ヤード・パー5)設計者は「距離はあまりないが、ヒダは存分に残している」と解説する。第1打は前方の大きな馬の背コブに左に蹴られ、第2打では落下点で左へ流れるコブがある。
相馬和胤現理事長は、「軽井沢GCはいまから日本オープンをやろうとするコースではない。そうだとしたら、みんな気持ちよくプレーできるコースをよしとします」と語っているが、それはご謙遜。戦略性はいぜんとして高い。特にベントグリーンの仕上がりの良さでは日本一という識者間の評価が高く、全国のコースからの視察が多い。
「同じ10フィートでも、速い10フィートと遅い10フィートがある、速い10フィとは、葉先の先へ先へと転がる。そういったグリーンを目指した」(大野哲也グリーンキーパー)というグリーン上の微妙こそ、このコースの醍醐味である。
因みに、南ヶ丘でゴルフコースに使われた26万坪の殆んどが湿原だった。2番、3番、4番と15番の低い所は“氷池”だったと小寺は書き残している。冬になり凍結すれば、池の水は“油氷”となり、春先には切り出されて東京で売られていた。軽井沢の地名は、油氷を産み出す“凍り冷わ(こおりさわ)”の転訛したものという説もある。

人間、白洲次郎のこと

白洲次郎元理事長は、1番ティ上のテラス。大時計の下が定位置だった。

白洲次郎元理事長は、1番ティ上のテラス。大時計の下が定位置だった。

 軽井沢ゴルフ倶楽部といえば、ヒーローは先々代理事長白洲次郎である。占領下の米軍をして「従順ならざる唯一の日本人」と嘆かせた快男子だ。
白洲は、昭和27年コースが米軍接収から解放された時に、理事となっている。昭和57年2月理事長に選任される。
世評では、白洲次郎といえばプリンシプル(原則)の男である。軽井沢GCでも、プライベートクラブの原則を貫いたというエピソードで語られることが多い。たとえば、T総理が、ある日曜日に、駐日外国大使を伴って来場したが、白洲理事長にプレーを拒否されたという話。またN総理は、SPを帯同して来場、プレーを断られたという話。二つの話とも、メンバーシップの原則による処理で、それが、特別に白洲次郎が強面の怪物だったかのように作られてしまったようだ。
現に、後にメンバーとなった汗掻きのT総理が、腰手拭いを改めなかったことで問題とする動きがあったらしい。その時白洲は騒がず「アレは汗掻きTさんには、必需品だよ」と笑って問題にしなかったという話もあるのだ。リゾートコースだから、服装も開放的、TシャツでもOKと、自ら胸に「PLAY FAST」と書いたTシャツを愛用、売店でも売った話は有名。人間的な側面を語るエピソードも少なくない。
白洲理事長は、特に従業員への対応が手厚で、白洲理事長が急逝した後、会報で、女子従業員による白洲理事長を思い出す座談会を開いた。ところが女性たちは涙と嗚咽だけで、遂に座談会にならなかったという話も残っている。
白洲理事長には、1つの心残りがあったようだ。昭和8年の改正で、「会員ノゴルフ練習ニ供シ」となっていた倶楽部規則第2条の文言が時代の変化だろうか、昭和57年の改正で、「会員のゴルフ競技に供し」と改変されてしまった。プライベートクラブのプリンシプルに拘る白洲理事長は、再度戦前の字句に改正する機会を狙っていたのではないかと、『軽井沢ゴルフ倶楽部六十年史』の「編集のあとがき」が記している
現在、10番ティ前には白洲次郎手植えの桜の老樹が残されている。

【付 記】
軽井沢ゴルフ倶楽部が南ヶ丘へ移転した後、旧軽井沢の9ホールのコースは土地の持主野沢組によるパブリックとなり、さらに鹿島建設に買収され、現在はメンバーシップでの旧軽井沢ゴルフ倶楽部となっている。二つの軽井沢GCをゴルフ界では、旧軽、新軽と併立して言う例が多いが、正しくは、<新軽の造った9ホールが旧軽であり>倶楽部創立の順位としては正しくは、新軽がより旧く、旧軽がより新しいのである。