第10回 嵐山カントリークラブ

 

 

東京駅から15分・東雲GC

9番グリーンからクラブハウスを見る

9番グリーンからクラブハウスを見る

 東京から車で片道60分が普通になっている今のゴルファーに、「昭和36年まで東京駅から15分の場所にゴルフ場があった」といえば、信じられないほどの羨ましさだろう。
 東雲ゴルフ場は、昭和27年江東区深川地先の埋立て地16万坪に開場している。今の臨海線東雲駅界隈だが、もう少し都心寄りだった。設計は井上誠一、埋立地だから全く平坦、18ホール・6,530ヤード・パー72.所管は、東京港湾局、(株)東雲スポーツセンターが都から用地を借り、東雲ゴルフクラブを創立、理事長は元東京都長官(今の都知事)松井春生。午前中は大手町、霞ヶ関、銀座のオフィスで仕事、その逆もOKとあって、政財界のゴルフ好き、著名人が集っていた。
 埋立地ながら井上設計のグリーン回りの妙と、時に天空のハザードともなる海風も吹き、戦略的にも高く、一時期中村寅吉、石井朝夫、小野光一、川浪義太郎といった強豪、トッププロも集った。
クラブのモットーは、ジェントルマン・シップ。バラック建てのような質素なクラブハウスの風呂場では、岸信介、佐藤栄作といった著名政治家も、年齢、地位を問わず、皆ニコニコ牧歌的な風呂場だったと、22歳で東雲をホームコースにしていた増岡正剛(後の理事)は書いている。
 しかし、昭和30年代に入って、雲行きは一変する。河野一郎建設相が、湾岸道路計画を発表、移転の噂が会員の間で広がる。もともと10年期限借地契約、「いずれ土地は返さねばならない」という気運もあったようだ。移転先探しが現実の問題となる。
 移転先をめぐって、会員は二つのグループに分かれる。旧軽井沢GCの役員でもある松井春生理事長のグループは、軽井沢の先佐久平に適地を求めて、昭和38年5月大浅間ゴルフクラブ(設計・理事長松井春生)をオープンしている。

立木の佇まいに風趣あり(5番パー4)

立木の佇まいに風趣あり(5番パー4)

 もう一つのグループは、常務理事天野健雄を中心に動いた。天野は、東京商工会議所広報課長、財界人ゴルフの世話役として貴重な存在であった。その人脈で、商工省ゴルフの幹事役岸信介とも顔なじみ、それが後に岸信介会長実現の力となる。
 天野グループの発起人会の中心として動いたのは、当時33歳東雲GCの若きアクティブ・メンバー吉田友明だった。吉田は当時歯科開業の傍ら日大歯学部生化学研究室で研究中の学徒。ゴルフ好きの学部長をモペットの後ろに乗せて東雲GCに通ったのがゴルフの始まり。若僧がゴルフでは憚りがあると、唐草模様の風呂敷にクラブを包んで通ったというエピソードの持主だ。(因みに吉田は現理事長、今年2月まで関東ゴルフ連盟理事長、日本ゴルフ協会副会長を勤めていた)
 このグループが後に嵐山カントリークラブを創り上げる。しかし用地探しは、難航つづきだった。最初は、オープン間もない高坂CCの隣地菅谷村将軍沢だが買収工作が進まず、隣接の滑川村に食指をのばすが、ここは古墳が多く、許認可に日時がかかると敬遠、もう一度将軍沢に戻り、そこから眺めた隣接地鎌形地区と共同山(共有林、現在のインコース)を併せた25万坪にめぐり合う。売却に大反対の大地主も異存なく、昭和36年6月、買収契約はほぼ完了する。

岸信介首相が倶楽部名誉会

 嵐山CCの成功に、忘れてはならないのは岸信介の存在である。天野健雄の人脈で、名誉会長就任の懇願中に、岸は自民党総裁、総理大臣となる。喜んで引き受けた理由は、「引き受けたらハンディ18をくれるか」だった。その数年前、岸は米国のアイゼンハワー大統領と、「大統領のゴルフクラブ」といわれるワシントンのバーニングツリーゴルフクラブでプレーしている。その際のプレー資格が、「ハンディ18以内」だったので、どうしても欲しかったらしい。
 時は嵐山CCが、大地主の反対で将軍沢の買収に悪戦苦闘している際だ。岸内閣は、日米安保条約を締結した2日後に退陣、嵐山CCも政界激変の中で、立ち往生しかける。
 昭和35年7月14日には、岸前総理が刺客に襲われるという事件も起きた。
 昭和35年10月1日名誉会長岸信介、理事長天野健雄で、第1次正会員30万円で募集開始。11月25日地鎮祭を開きコース工事を開始した。
 コース設計は、1グリーン設計で有名な小寺酉ニ。昭和30年代に入って、井上誠一らを中心に2面グリーンが90%という時代だ。その中で小寺は、相模原GC東コース、狭山GCでは、1000平方メートル近くの大きい1つのグリーンを、前半高麗芝、後半ベントグリーンと貼り分けたコンビネーショングリーンを提案して、1グリーン主義にこだわった理想主義者だ。
 小寺は、嵐山CCでも1グリーンを主張した。しかし現在とは、芝の品種、管理技術も違う。1年中いいコンディションを保つには2面グリーンが必要という現場、経営サイドの意見が通って、嵐山CCは2面グリーンを採用した。しかしその反面では、嵐山CCは、人工性(マーンメイド)に見えるデザインを潔癖なくらい嫌った。

自然の地形を戦略化した18ホール

フルバックから左グリーンを狙うとき大池が怖いハザードになる(11番パー3)

フルバックから左グリーンを狙うとき大池が怖いハザードになる(11番パー3)

 その代表が、18番(555ヤード・パー5)である。ティグランド、フェアウエイからグリーンまで、スルーザ・グリーンがすべて原地形の上に、造るのではなく、置かれたように伸ばされているのだ。原地形は、低い丘陵の中のゆるやかに左スロープの山膚である。当然、ボールライは1打落下点、2打、3打ともツマ先上がりのフックライになる。そこをコントロールしながらのゲーム・プランが、フィニッシングホールの決め手となる。
 冒険したくなる人気ホールは、6番(527ヤード・パー5)だ。250~270ヤード地点に、5・6本の大きな松を擁した小さな丘がある。豪快な飛ばし屋は、この上(松の間を抜く幸運も)を超えれば、2オン・バーディのヒーローライン。フェアウエイは、この松の丘を左から右へ回りこんでいるので、フェアウエイなりに打ちつなげば安全、しかし、パーセーブも時に危なくなる。ヒーローラインを選んで英雄気分に浸れるか、どうか。
 15番(405ヤード・パー4)は、高く掲げた右グリーン、フェアウエイのレベルで置かれた左グリーンの、2つのグリーンへ向ってフェアウエイは3~5%のスロープで下っている。第1打は、左右2本の松の独立樹の間を打ち抜いてゆく。難しそうに見える高い右グリーンよりも慎重に攻めたいのは左グリーンだ。フェアウエイからトントンと転がして乗りそうに見えるが、グリーン左前のバンカーに要注意。平成17年日本シニアで、友利勝良プロはこのバンカーで2打失って優勝を逃がしている。
 日本シニアオープンで能力あるプロたちが、1番(398ヤード・パー4)10番(362ヤード・パー4)の左グリーンを狙うとき、敢えて2オンを狙わずグリーン前の花道に慎重にボールを置くように止めたのは、なぜだったか。二つのグリーンは、フェアウエイの先、台地の端に置かれているので、少しでも狂うと、ボールはグリーンを越えて崖の下へころがり落ちるのだ。

 嵐山CCは、自然の地形を正確に読み解きながら戦略化している。それが嵐山CCn独特の難易度になっている。そのことは関東オープン(昭和51年)尾崎将司6アンダー、日本オープン(54年)上原宏一5アンダー、日本シニアオープン(平成17年)中嶋常幸6アンダーというシビアな優勝スコアに如実に現われている。

武蔵国の嵐山(あらしやま)

 嵐山CCが、第1回募集時に、「武蔵嵐山CC」の名称だったことを知る人は、今やそんなに多くない。秩父山地から張り出した標高50~60メートルの玉川台地の麓を都幾川がめぐり、上流には、京都の嵐山に似た渓流の名所がある。日比谷公園の設計者・本多静六が、武蔵嵐山と名付けたほどである。近くには悪源太義平ゆかりの大蔵館、鎌倉時代の武将畠山重忠が拠った菅谷館。菅谷館郭址には、岸田日出刀設計の嵐山ロッジが建てられていた時期もあった。

所在地    埼玉県比企郡嵐山町鎌形1146
TEL     0493-62-2355
開場日    昭和37年10月21日
コース    18ホール・6811ヤード・パー72
コースレート  72.5
コースレコード (プロ)村上 隆 65
(アマ)白井 敏夫・原田 鉄也 66