第21回 戸塚カントリー倶楽部

 

 

都市型名門クラとしての近未来

戸塚カントリー倶楽部 クラブハウス正面より

戸塚カントリー倶楽部 クラブハウス正面より

 5年前になる。平成17年10月2日午後3時、戸塚CC西コース18番フェアウエイは、ギャラリーエリアから溢れ出した1万人以上の大観衆で湧き返っていた。この日、日本女子オープン競技が集めた観客数は4万8677人。不動裕理が優勝した前年(広島CC八本松)の1万2703人に比べ、4倍する人気沸騰ぷりだった。取材でフェアウエイを歩きながら、何かが変わる、歴史が変わる、という昂奮があった。
 むろんその1番の理由は、その年の春高校生で女子プロ競技に優勝した宮里藍の超々人気である。しかしその陰で見落されてはいけないのは、舞台となった戸塚カントリー倶楽部の抜群の立地条件である。東京からは横浜新道利用で玉川インターから川上インターまで25分、横浜市街から20分。ヒンターランドに東京、横浜という巨大都市をもつ都市型名門ゴルフクラブ「戸塚CC」の現在と近未来を象徴するような、圧倒される光景だった。

始まりは旧制七高の同窓会だった

 『戸塚カントリー倶楽部三十年史』(以下三十年史と書く)によると、戸塚CCの場所は、武蔵国と相模国の分水嶺に当たるそうだ。クラブハウスの場所が最高地点で、クラブハウスの屋根の高さとほぼ同じ高さの山だったとか。そこはまた横浜市内で最高の山だったという。
 立地条件がいいので、戸塚CC以前にも、幾つかのゴルフ場新設計画が動いたこともあるらしい。
しかし、場所は同じでも、戸塚CCの創立動機は、全く別の新しいものだった。
 昭和33年、「東京→大阪間に新幹線ができたら、戸塚辺りに新駅が出来る筈、東西財界の交流も多くなるだろうが、霞ヶ関CCではゴルフは遠すぎる。財界中心の高級ゴルフ場を造ろう」と、言い出しっぺは、三和銀行頭取渡辺忠雄を中心とした旧制第七高校(鹿児島)の同窓生たちだった。東洋経済新報副社長山田秀雄、東洋電機社長三輪兵吉、京成電鉄社長橋口正幸、一期下の電通社長吉田秀雄も加わった。昭和33年11月19日神奈川観光開発(株)設立、社長三輪兵吉だが、健康を害して吉田秀雄と交代。本社は桜木町の三和銀行横浜支店内に置かれた。財界からは、野村証券社長奥村綱雄、大日本精糖会長藤山愛一郎、松竹社長城戸四郎、大林組社長大林芳郎、日本通運社長福島敏行らが、発起人に名を並べた。
 目的は、一般募集の会員制クラブではなく、東西財界の交流の場としてのゴルフクラブだった。中心となった企業は、電通と三和銀行である。

精力的だった吉田秀雄社長(電通)

戸塚CC西コース5番ホール パー3

戸塚CC西コース5番ホール パー3

 社長となった電通社長吉田秀雄の動きは、精力的だった。コース用地は山また山、高低差30メートルの“鋸のような屋根と深い谷が入り組んだ”九十九谷戸という幽谷だった。土質も少し掘ると粘土質の沖積層「土舟」が出た。現場の人間は、鎌倉ボタと呼んだ。ダイナマイト発破をかけても、ブスっと不機嫌な音をくすぶらせるだけ。工事費も工期も、常識の2倍はかかりそう。現地を視察した設計の井上誠一は、「こりゃダメだ」と語ったと三十年史は書く。
 しかし吉田は、是非ゴルフ場を造ると主張。設計の井上が、用地の面積、地形から27ホールを助言したのに対してあくまでも36ホールをと強硬、昭和34年10月17日に地鎮祭を挙行、用地買収と平行しての工事を始めた。
 コース用地をめぐっては、隣接の横浜CC、そして相模鉄道との争奪戦となる。まとまった川上地区を、間野貞吉設計で先行して着手した。土地取得の事情で度々の設計変更をくり返しながら昭和36年12月20日、川上コース・18ホール、6510ヤード・パー72を開場。現在の東コースである。
「アベレージゴルファーに使い勝手のいいコース」(三十年史)だとしている。

2005日本女子オープン最終ホール グリーン上 宮里 藍 戸塚CC西コース18番ホール

2005日本女子オープン最終ホール グリーン上 宮里 藍 戸塚CC西コース18番ホール

 名瀬コース(現在の西コース)は、30台以上の大型ブルドーザーを導入しての大工事だった。動かした土量は、川上が100万リューべ、名瀬は270万リューべの大工事で、ゴルフ場造成が機械化される先駆となった。開場は、昭和37年10月17日。18ホール、7041ヤード・パー72.設計の井上誠一は、「個々に何番がどうという批評もあると思いますけれども、私自身としては、コース全体の調和といいますか、そういうものはまあまあ保たれていると自信をもっています」と語っている。
 名瀬コースには、吉田秀雄社長は、国際的にも通用するチャンピオンシップコースを構想していたようだが、成果はどうだったか。
 現在のリニューアルされた西コースになる前の名瀬コースでは、昭和43年4月にはエキシビションでゲーリー・プレーヤーも来場。昭和52年10月、ジャック・二クラスがチャリティゴルフをラウンドしている。昭和50年からは日本プロマッチプレー選手権を8年連続開催して、チャンピオン級コースへの階段を順調に上る。
そして遂に、昭和61年、国内最大のメジャー日本オープン選手権を開催。中嶋常幸が、4アンダー・284ストロークで優勝している。

新クラブハウス登場で第2創生期に入る
 
戸塚といえば、丹下健三設計の巨大なコンクリート建物のクラブハウスが有名だった。大きな竹を真二つに割った切断面を上に向けて屋根にした斬新且つ異様な前衛建築だった。まるで納骨堂だという者もいたという。大変な金喰いビルディングで、総面積1520坪、当初予算1億6000万円が3億6000万円に膨らんだが、吉田社長は強行した。
 平成9年11月、土焼瓦色の外壁にフランスで焼入れをしたというフランス瓦のグレーの屋根を載いた現クラブハウスが現われる。クラブハウスが新しくなったのを契機に、戸塚CCは、第2創生期に入ったようにリニューアルを始めた。
 東コースは、平成19年設計家大久保昌によって、2グリーンからペンクロスの1グリーンへ大改造され、バックティを新設、6770ヤードに伸ばされた。結果、アベレージ向けのプレーしやすいコースから、上級者のシニア、レディスも楽しめるコース、西コースとは違ったテーストを持ったコースにグレードアップされた。
 西コースは、同じく大久保昌の手によってきびしく井上誠一の原設計が復元された。因みに大久保は、龍ヶ崎CC(茨城県)開設時に、井上誠一の下で直にその仕事を見てきた直弟子である。この改修によって西コースの戦略性と修景と造型美は、より際立ったものとなった。ヤーデージは7073ヤード、グリーンはペンクロスオーガスタとペンクロスの2グリーンである。
 西コースは、関東地方を代表するチャンピオンコースの1つだが、際立った難ホールを提案してはいない。バランスの取れた18ホールだ。その中で“戸塚のアーメンコーナー”を挙げるとすれば、15番、16番、17番ホールであろうか。
 15番(485ヤード・パー4)は、ハンディキャップ2の難ホールだ。第2打地点から上り勾配で、グリーン面が見えにくい。第1打の落下点が深いハロー(窪地)になるので、第2打を狙うためのどこに着地するかが鍵となる。
 16番(636ヤード・パー5)関東では一番長いパー5のホール。ヤーデージからみて2オンは無理、しかし難易度は高くない。ティからグリーンまでハザードはよく見え、飛球ははっきりと見極められる、第2打をサブグリーン側に落とさないことだ。
 17番(417ヤード・パー4)短いが勝負を左右するホール。第1打は大きい打ち下ろし、成否のカギは、グリーン面を見せない高いピンを狙う第2打。グリーンは後ろから前へ右から左へと変化が交織されていて複雑。バーディとボギーに分れるホールだ。

 

 戸塚カントリー倶楽部(メンバーシップ)
 所在地   神奈川県横浜市旭区大池町26
       TEL 045(351)1241
 コース規模   西コース 18H 7073Y P72
         設計 井上 誠一  コースレート73 
         東コース 18H 6619Y P72
         設計 間野 貞吉  コースレート71.7