第19回 相模原ゴルフクラブ東コース
“相模”と“新相模”の微妙な関係
昭和30~40年代の東京周辺のゴルフ界では、相模原ゴルフクラブを“新相模”という愛称というか俗称のように言うゴルファーが少なくなかった。いわれがある。
昭和27、28年頃、朝鮮動乱景気でゴルフ人口が戻ってきた。しかし、程ヶ谷、小金井、霞ヶ関などの名門は、米軍接収から戻らず、名門クラブのゴルファーたちは半ばホームコースを奪われていた。彼らは争って、サラリーマンのコース相模カンツリー倶楽部に入会した。相模CCの名門度は急上昇し、希望者はまだ溢れていた。そこに注目したのが、毎日新聞社長で小金井CC、千葉CCなど理事長・会長を兼ねる高石真五郎であった。高石は、折から戦前の藤沢ゴルフクラブが、横浜に復活しようとしている動きを併合して、昭和28年6月1日、相模CC(神奈川県大和市下鶴間)に隣接する相模原市当麻の自然林20万坪を確保して、「社団法人新相模カントリークラブ」の発足を公表した。“新相模”とは、人気絶頂の名門相模カンツリー倶楽部にあやかったのである。ところがこの動きには、2方面から横槍が入った。
「“新相模”という名称は、当クラブと関係あるかのようで紛らわしい」と、頼みとする相模CCから文句が出た。これに対して高石は、「料理屋だって新喜楽と分とんぼがある。分家があってこそ本家にも重みがつく」と口惜しがったと『相模原ゴルフクラブ50年史』にも書いているが、致し方なし、相模原ゴルフクラブと改称する。
2つ目の難題は、同じ年の7月1日、文部省(当時)が、ゴルフ倶楽部の社団法人組織を許可しないと政策変更したことだ。社団法人相模原ゴルフクラブは、株式会社相模原ゴルフクラブと改称せざるを得ない事態に追い込まれた。
株式会社ゴルフクラブの第1号である。全会員が、同じ額面の株券を持ち合う株主会員制である。組織形態は違っても、心は社団法人だった。ところが第2次会員募集に当たって問題が発生する。増額分を増資にすると手続きが複雑だ。そこで1次分を株式、増額分を預り金とした。預託金制の始まり、株式+預託金制第1号となった。
因みに、相模原GCのすぐ近く座間市寄りの相武台には現在、丘の上に在日米軍司令部がある。(専用のゴルフコース18ホール付きだ)戦前そこは、陸軍士官学校だった。相模原GCは、士官学校の演習場の地続きの雑木林に造られたのである。
小寺酉ニと巨大1グリーン設計
“新相模”という名称にはケチをつけたものの、相模CCと相模原GCは、喧嘩対立したわけではなかった。
相模原GCの設計者は、相模CC理事長の経験もある小寺酉ニが引き受けている。小寺は慶応大学から大正13年米国プリンストン大学卒業。ゴルファーとして活躍、昭和9年の日本アマ選手権では、決勝に進出、赤星四郎に惜敗している。小寺の名声を上げたのは、昭和6年開場の軽井沢GC新(現)コースの斬新な設計だった。戦後は、石井光次郎会長、野村駿吉副会長の下で常務理事として日本ゴルフ協会の復活、成長に力を尽くし、主要競技の戦後復活は、殆んど彼の努力によるものだ。傍ら設計でも、相模原、狭山など1000平方メートルを超える巨大グリーンを提案、世間を驚かした。ゴルフは1グリーンが鉄則とこだわり、滔々たる2グリーン時代到来の中で、巨大グリーンに前半をベント芝、後半を高麗芝に貼り分けたコンビネーション1グリーンを造ってみせたのは、小寺の相模原(東)、狭山Gと井上誠一の大洗Gだけであった。
中でも相模原GC東コースは、その代表格だ。最大のマンモスグリーンは12番ホール、ベントと高麗を貼り分けて、面積1980平方メートルだった。現在の1グリーンの550~600平方メートルに比べ、約3倍である。筆者は、昭和30年代若いゴルフ記者として、このコースの攻め方を取材した。当時の専属原将芳プロは、巨大グリーンの攻め方を「パーオンを狙うな。グリーンが広すぎるので3パット続出だ。それよりグリーンエッジに止めて、そこからアイアンでアプローチ、ピタリ寄せてパーセーブ、悪くてもボギーだ」と教えてくれたことを思い出す。
昭和32年5月、18ホール、7255ヤード・パー74が開場。当時としては、際立って長い18ホールだった。小寺酉二の設計哲学は、コースは許す限り長く、グリーンとティはゆったりと広く平坦に、1ホールに1グリーンが鉄則だった。
相模原GCのコースは、忽ち日本一長い、難コースとして評判になる。同時に単調で広すぎ、しかもベントと高麗を貼り分けた煩わしさに、風当たりが強くなる。その中で唯一1人、コンビネーション1グリーンという小寺酉ニの新提案を支持したのが、大洗GCをデザインした井上誠一だった。
2グリーン時代と東コース
気候風土と芝の関係もあって、昭和30年代の日本では、ベント芝と高麗芝を別個のグリーンとして独立させた1ホールに2グリーンが常識となった。
相模原GCでも、昭和34年3月隣接地に、18ホール、6720ヤード・パー72の2グリーンのコースが生まれる。設計は、専属の村上義一。18ホールリターンという日本では少ないタイプのコースだった。東コースに比べて起伏があったが、ヤーデージもフェアウエイ幅もグリーン面積も、常識の範囲の作品だったが、長大で広すぎる東コースへの反動から、一時期、東コースを人気で上回ることもあった。そして遂に昭和38年7月28日、東コースでもベント芝と高麗芝のグリーンをそれぞれ独立させて砲台型に盛り上げ、ティグラウンドも盛り上げるという大改造が行われ、小寺酉二設計は姿を消してしまった。ヤーデージでも、ベント7260ヤード、高麗7140ヤード(いずれもパー74)と変更された。平たくゆったり1グリーンという米国型古典主義の雰囲気が消えて、日本特有の2グリーンの姿に変わった。1グリーンで造られた戦略性が、2グリーン化でどう変化したか、それを見届けたメンバーたちも今や数少ない。
相模原GC 36ホールのうち最大の難ホールを1つ挙げるとすれば、12番(607ヤード・パー5)だろう。それは、1グリーン時代も2グリーン以後でも変わらない。長大さだけではない。ビッグ3来日の時、第1打を右の小山(マウンド)に打ったパーマーが苦吟していたことで判るように、第2打からの狭いフェアウエイ、両側の疎林の置き方、グリーン手前のフェアウエイをハローにした造りなど隙がない戦略ホールである。
東コースは、平成16年のコース改造で、通常のコースは43ヤード延びて18ホール、7311ヤード・パー74となり、他にメジャートーナメント用に、パー5の3番、18番をパー4として、18ホール、7233ヤード・パー72のティグラウンドを新設している。
相模原GC・東コースは、日本におけるコース設計の歴史を歩き続けた数少ないコースの一つである。
所在地 神奈川県相模原市大野台4ー30ー1
東コース 18ホール、7269ヤード・パー74
設 計 小寺酉ニ
コースレート 74.0
開 場 昭和30年4月29日
西コース 18ホール、6920ヤード・パー72
設 計 村上義一
コースレート 72.6