第2回 小金井カントリー倶楽部

 

 

株主会員制のはしり
 昭和元年、当時ウォルター・へーゲンの特約代理店を経営していた深川喜一は、親友でゴルフ仲間の造船技師加藤良と語らって、駒沢の東京ゴルフ倶楽部に入会した。
 2人とも無類のゴルフ好きで、年間365日駒沢コースに通ったという記録がある。しかし馴れるにつれて、倶楽部内がすべて、華族、財閥系の会員中心に運営されていることに気づく。面白くないから、誰でも入会できて、開放的なシステムのクラブを作ろう、そうだ株式会員制が良い、と始めたのが深川喜一の小金井カントリー倶楽部と加藤良の我孫子ゴルフ倶楽部である。なぜ2人が別々の株主制倶楽部を始めたのかは不明だが、昭和6年1月加藤が、9ホールを残して急逝した時、深川は、我孫子GCの残りのアウト9ホール造成に参加、同年8月18ホールを完成、貢献している。
 昭和8年頃、深川商会に、府下北多摩郡小平町鈴木新田の土地を、「ゴルフ場に最適の土地があります」と、持ち込んだのは、多摩川の河川敷に六郷ゴルフ倶楽部を造り上げたばかりの芝商安達商会の安達貞市だった。
 深川がその話に興味を持ったのには理由があった。関東大震災以来東京の住宅地は、阿佐ヶ谷、荻窪へと西へ伸びていた。しかし、新しいゴルフ場は、我孫子、程ヶ谷と南北へ造られている。西へ1つゴルフ場があってもいいのでは?小金井はまさに適地だった。

設計はW・ヘーゲン 
コース設計者は誰にするか、ウォルター・へーゲンブランドを扱う深川に、迷いはなかった。深川は、用地13万坪全域のコンター図を持って、昭和11年初夏に渡米、デトロイトにヘーゲンを訪ねた。
 ヘーゲンは、ラフなレイアウト図を書いたあと、自分のホームコース、ペンシルベニアのリッジウッドクラブなど数コースを、造成の参考にと案内している。その際へーゲンが一流コースの条件として提示したのが
① パー3は150ヤード以上、②パー5は600ヤード以上は面白くない、③アウト、
インに、430~440ヤードを2ホールずつ、④350ヤード以下のパー4は造るな、⑤グリーンからティ間はできるだけ短く、という5つのメモだったと、『小金井CC50年史』に出ている。
因みに、小金井CCのクラブハウスを背景にした3番パー3は、地形のよく似たリッジウッドコースのショートホールをそのままレイアウトしたといわれる。
 なお、ヘーゲン自身は翌昭和13年4月21日ジョー・カークウッドとの模範競技で来日、初めて小金井CCをプレーしている。
 昭和11年11月7日、資本金2万円で小金井ゴルフ株式会社を設立。社長は深川喜一。会社が土地、建物を所有し、クラブに貸与する形をとり、会員は母体会社の1株株主となる組織で、倶楽部創立委員長(理事長)に、毎日新聞主筆高石真五郎氏を選んだ。 
昭和12年2月19日地鎮祭を行って着工。席上、高石委員長は、
 「今度ここにゴルフ場ができれば、小金井は桜以上にゴルフ場で有名になるだろう」
と讃辞を述べた。そして80年後の現在、その通りになっている。
 小金井CCの設計はウォルター・ヘーゲンだという説には、異説もある。
『小金井カントリー倶楽部五十年史』82~83ページには、“ウォルター・ヘーゲンによるコース・レイアウト”というイラスト図が掲載されている。BY・WALTER・HAGINのサインもあるが、筆記体の字とは見えにくいものだ?
 小金井CCのコース工事を担当した『安達建設グループ110年の歩み』26ページには「設計はウォルター・ヘーゲンということになっているが、当人の了解を得た上で、設計用紙の隅にサインして貰っただけである。
 工事についていえば、ダブルグリーンとしたのは小金井が初めてである。1つだけだと傷んで困るからダブルとして作った」と記録している。小金井CCの五十年史に掲載されたレイアウト図も、確かに2グリーンとして描かれている。小金井CCのコース・レイアウト図を描いたのは、安達建設ということになるが、どうだろうか、謎である。
 
小金井は“戦争の申し子”である。
 着工した年の昭和12年7月7日、北支盧溝橋で日支両軍が衝突、日中戦争が始まる。心配した深川は、近衛文麿公の紹介で、陸軍参謀本部に、「ゴルフ場建設を続けたものかどうか」打診する。参謀本部の意見は「この事変は12月末で結末がつく、安心して続け給え」と心強いものだった。しかし終るどころか、事変は太平洋戦争へと拡大、以後8年間、ゴルフ受難の時代が続く。
 だが、工事は快調。伐採開始から僅か8ヶ月、昭和12年10月3日、18ホール・6600ヤード・パー72が本開場する。記念競技で、赤星六郎が77のコースレコードを出している。
 開場当時の会員数は、特別会員13名、賛助会員48名、正会員397名、計458名でスタートした。しかし、社会情勢は日々、ゴルフにきびしくなる。入場税10%、ボールの配給制、30歳以下プレー禁止、キャディ廃止と規制が続き、ゴルフ用語の日本語化、昭和19年には、ゴルフ税150%となる。禁止税に近い扱いである。
 日本プロ選手権は日本職業選手権となり、試合に参加した宮本留吉は、ゴルフバッグを担ぐのを憚って、小金井駅までの鉄道馬車内では、ゴルフクラブを風呂敷に包んで乗り込んだと語っている。
 昭和20年に入ると、インコースを陸軍経理学校が接収、3月には、ハウスに近いアプローチ練習場に250キロ爆弾が落下、6月2番・5番のフェアウエイに4発、14番の雑木林にも一発、ハウスの屋根が吹き飛ばされた。
 7月には悲劇が起る。敵弾が命中、撃墜された日本軍パイロットの遺体が、パラシュートと共に、正門玄関前の松の枝に落下するという痛ましい惨劇が生まれた。
 いずれも、近くの中島飛行機工場を狙った空襲の誤爆による被害だった。
20年になると陸軍経理学校に接収されたインコースは、一部がイモ畑になり、フェアウエイの芝は剥ぎ取られて横田の陸軍飛行場の滑走路に使われた。戦争が終ると、それを取り戻してインコースを修復したと、のちに所属の輿水潔プロが語っている。
 昭和20年8月15日終戦。12月米第八軍スペシャルサービスが全面接収、会員のプレー禁止、「ロッカーにも入れなかったし、建物はすべて白ペンキで塗りつぶされて、まるでアメリカだった」とコース復旧で働いていた小林光昭氏(コース設計家)が語っている。クラブが完全に会員の手に戻るのは、昭和29年4月である。

 平成17年4月28日、小金井CCは生まれ変わった。クラブハウスが新しくなって、小金井CCは、一種上蔟(じょうぞく)した。
 開場以来70年親しまれた山下寿郎設計の英国風尖塔屋根付のクラブハウスは、訪れた人々に名門の記憶を焼きつけたものだ。新しいクラブハウスは、それよりは少し武張って戦国古城を思わせる外見だが、内部は一変して瀟洒、どこにも威を衒ったところがなく穏やかな空間が広がっている。
 新しいクラブハウスは明るい。それも間接照明のような品の良い明るさだ。出しゃばらない、やり過ぎない、控えめでいて必要な時いつも、サービスがすぐそこにある。新しい容れものには、新しいホスピタリティだ。
 一番の進化は、小さくて狭く“家庭風呂”と皮肉られた浴室が男女とも大拡張、セパレートされた洗い場、化粧台、シャワーがそれぞれ8個設けられている。コンペルームも3室。なによりも2階に上がるにはエレベータがある。平日の2階食堂にはレディスの姿が多い。
 「小金井なら、1ラウンドしても午後5時までには、余裕をもって自宅に戻れます」というレディスの声を聞いた。
 18ホール・6,760ヤード、レギュラーは6,430ヤードと長くはない。コースレート71.7。むずかし過ぎることはない。小金井コースの難易度を上げているのは、小さな砲台グリーンとそれをがっちりとガードする深いバンカー群である。とくにパー3は、攻めるに手強く面白い。
 3番(185Y・158Y)パー3。馬の背のように左へ流れる地形の一番の高見に二つの小さなグリーンが置かれている。ヘーゲンがリッジウッドのあるホールをズバリデザインしてみせたといわれるホールだ。前のグリーンは前後をバンカーでがっちり。グリーンは思いきり小さい。背後にクラブハウスがよく映える。
 12番(191Y・168Y)グリーン前に身の丈を没するほど、深くて、大きいバンカーが身構えている。乗るか乗らぬか、プレーヤーは、このホールをパーセーブで越えると、ストロークセーブに自信をもつといわれている。
 7番(145Y・131Y)も前のガードバンカーが深いが、距離が短いので高いボールを打てる人は組みしやすい。
逆に17番(221Y・203Y)パー3は、長さからみて、一般ゴルファーは2オン狙いのパーセーブか。
 18ホール中、コースのおもしろさを最高に堪能させられるホールは、2番(407Y・385Y)ホールである。フェアウエイは、右半分が右流れに傾き、且つ250ヤード先からは、大きくダウンスロープを描いていて、その微妙が戦略のポイントである。ヨコとタテの変化をあざなったような玄妙さが、おもしろいのである。
 3月下旬から4月上旬にかけて、小金井のコースは、桜で満開になる。中でも15番、18番フェアウエイ両側の桜は圧巻である。